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☆ リーフレット(pdf 160kb) : ← 塩狩ヒュッテご利用の要点を1枚にまとめてあります。
* FLYER (pdf 98kb) : in english.
☆ リーフレット(pdf 94kb) : ← 三浦綾子記念文学館からお越しになる方におすすめです。
経営者
| Name |
Yasuyo Goda / 合田 康代 |
Toshiyuki Goda / 合田 俊幸 |
| Email |
[email protected] |
[email protected] |
| Facebook |
http://www.facebook.com/yasuyo.goda |
http://www.facebook.com/toshiyukig |
| Phone |
電話 090-1963-3524 |
電話 090-8375-3481 |
| Twitter |
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@toshiyukigoda |
| Work experience |
1993年より2年間生命保険会社にて営業員として活躍。1年間カナダのホテルにて宿泊業の実務経験を積む。2001〜2011年の10年間、大阪の輸入商社にて貿易部門の責任者として活躍した。 |
1998年より4年間東京の外資系ネットワーク機器メーカにて技術員として活躍。1年間カナダのログハウスメーカにてコンピュータエンジニア・セールスプロモータとして活躍。2003〜2012年の9年間、大阪の商社にて営業員として活躍した。 |
| School education |
京都女子大学 英文学科 |
日本工業大学 建築学科 |
| License and qualification |
- 食品衛生責任者
- TOEIC 985点
- ジュニア野菜ソムリエ
- スキーJAS1級
- 運転免許 (普通)
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- 甲種防火管理、防災管理
- 第2種電気工事士
- 第一種銃猟 狩猟免状
- 危険物乙4、消防設備士乙7
- 4級アマチュア無線技士
- 運転免許 (普通、大特、普自二)
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| Wish 構想 |
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2014年4月〜2015年3月の活動予定 :
活動名 : 塩狩峠と長野政雄氏をきっかけに旭川〜名寄により多くの方を招く活動
活動の概要 : (1)三浦綾子氏の小説塩狩峠では、献身で乗客を救った鉄道員永野氏の遺族が、5月28日に受難の地(白木の柱)を訪れており、映画にもその場面がある。今回はその白木の柱を和寒町21線踏切付近に再現。(2)小説のモデルとなった長野氏の最後の足取り(旭川〜塩狩〜名寄)をリーフレットで紹介し定番コース化。2月28日と5月28日にツアーを実施。(3)2月28日と5月28日は、塩狩峠記念館にて、講演、朗読、演劇等を実施。
《地域社会への貢献度》小さな成功を示す事で、各分野で資源の再認識やモチベーションが起こります。そこに来訪者が加われば、新たな活動が立ち上がったり、地域住民同士の交流も生まれます。そのように好循環を生み出します。
《地域経済への貢献度》癒し・研鑽・観光の為に、九州・四国・本州から道北のこの地を目的地として移動して来る方々が増大します。当然、輸送・飲食・宿泊・お土産には直接の貢献があります。また、身をもって農産環境を知って頂く事により、帰った後の通信販売や指定購入も増えます。
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事業概要
| 屋号 | (個人事業) 塩狩ヒュッテ (しおかりひゅって) http://www.facebook.com/shiokari.info
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| 事業所 | 〒098-0125 北海道上川郡和寒町字塩狩503-2 (ほっかいどう かみかわぐん わっさむちょう あざ しおかり) |
| 目的と方針 |
塩狩の積極的な観光活用(イベント等)を実践し、交流人口を増加する。
1. [攻め] 強みで取り込む機会 :
1-1. カフェや売店で既存観光客。
1-2. ネット、自然派施設、交通の良さで遠方のお客様。
1-2. ネット、英語対応、交通の良さで他国のゲスト。
* ユースホステルの統計情報によると2012年の来日宿泊数は56219人。ターゲティングを2割とするなら1位オーストラリア7245人。2位アメリカ7109人。までだが、2011年2010年まで見渡すと、2012年3位韓国(4883人)を合わせた3か国が1〜3位を取り合っている。英語にて、豪米韓からの来日者を導きたい。
2. [奪う] 強みで脅威を回避 :
2-1. ネット、交通の良さ、英語対応で抜きん出る。
2-2. 冬の特徴を強調し、主に夏という印象を覆す。
3. [補強] 弱みで機会を取りこぼさない :
3-1. 温泉ではないが、新築を強調、四季の五右衛門風呂企画。
3-2. 国道からの看板が少ないが、駅強調、他者と相互宣伝、増設努力。
3-3. 定員が14名しかないが、平日に中高年、週末に壮年を。
3-4. 少定員だが、テント、キャンピングカー受入。
4. [撤退] 脅威と弱みが合わさる :
4-1. 夏だけの稼動。
4-2. 1棟貸し化。
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| 事業内容 | 簡易宿所営業、飲食店営業
塩狩ヒュッテは、2013年3月27日完成。建物には北海道産のトドマツ丸太約200本を使い、ポストアンドビーム造り。延床面積40坪。
国内外から多くの人を招き交流の拠点としたい。また、塩狩温泉再興の拠点にもしたい。
ユースホステルの会員数のピークは1972年の63万人。そして40年余経った今、セカンドライフの一助となる事も期待している。
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事業規模 | 旅館業における宿泊数は年間756泊を想定。 |
| 創業 | 2012年08月10日(金) 午後 |
| 営業開始 | 2013年04月25日(木) 宿泊の営業を開始 |
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取引機関 |
株式会社 日本政策金融公庫
・北星信用金庫
・株式会社 ゆうちょ銀行
・株式会社 三菱東京UFJ銀行
・株式会社 りそな銀行
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和寒町(〒098-0125)の天気
車ルート検索
和寒町のホームページ
和寒町商工会青年部 (facebook)
和寒町商工会青年部 (blog)

* 当館のロゴは、ユースホステル創設者リヒャルトシルマン氏が1955年に書いた文字をドイツのご息女から提供して頂き作成しました。
【基本情報】 ウィキペディア より
【塩狩峠】 塩狩峠(しおかりとうげ)とは、北海道比布町と和寒町の間にある峠である。標高263m。北緯44度付近に位置する天塩国と石狩国の境界にあり、天塩川水系と石狩川水系の分水界上でもある。また、道央と道北の境界とされる場合もある。1900年(明治33年)に現在の宗谷本線が、2000年(平成12年)には道央自動車道が峠を貫いて開通した。
【小説 塩狩峠】 鉄道事故の実話を元に、三浦綾子が小説『塩狩峠 』を著し、1966年(昭和41年)4月から約2年半にかけて日本基督教団出版局の月刊雑誌『信徒の友』に掲載された。これを記念し、塩狩駅近くには、塩狩峠記念館及び文学碑が建てられた。のちにこの作品は、1973年に松竹(監督:中村登、主演:中野誠也)によって映画化もされている。小説版の話を元に埼玉県の道徳の教科書『かけがえのないきみだから』(3年生版)に塩狩峠が掲載されている。
【鉄道事故】 1909年(明治42年)2月28日、ここ塩狩峠の区間に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかける事故がおこった。その車両に乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)職員の長野政雄(ながの まさお)が、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止めた。下敷きとなった長野は殉職したが、これにより乗客の命が救われた。現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くに顕彰碑が立てられている。
【和寒町】 和寒町(わっさむちょう) は、北海道の上川地方北部、上川郡にある町。スキーのクロスカントリーが盛んで数多くの国内トップ選手を輩出してきた。かぼちゃやキャベツ、アスパラなどの野菜や、きのこの生産が盛ん。町西部の丘陵地帯の風景は、美瑛町の丘陵風景に劣らず美しい。キャベツを収穫せずそのまま雪の下で保存する「越冬キャベツ」発祥の町。
【除虫菊】 シロバナムシヨケギク(白花虫除菊、除虫菊、Tanacetum cinerariifolium)は、キク科の多年草。胚珠の部分にピレスロイド(ピレトリン)を含むため、殺虫剤の原料に使用されている。原産国は地中海。セルビアで発見された。かつて国内の主産地だった広島県因島市(現尾道市)の市花。開花時期には島の斜面が美しい白い花で埋まった。大日本除虫菊(金鳥)の創始者上山英一郎がこの除虫菊を使って、渦巻型の蚊取線香を発明した。除虫菊の見頃は、5月上旬〜下旬。
【塩狩温泉ユースホステル】 塩狩温泉ユースホステル(しおかりおんせんユースホステル)は日本ユースホステル協会に加盟していた北海道のユースホステル。2005年10月より併設の温泉旅館ともども休館となり、再開することなく2006年6月末で正式に閉館した。
FMりべーる FM 83.7 MHz 2013年6月3日(月) 12時半頃〜12:55頃
上條KENのラジオアフタヌーンショー に出演させて頂きました。次回、6月10日(月)は、同じく和寒町のタテドウ アカネさんが出演して頂く事になりました。
お披露目会 スピーチ 2013年6月1日(土) 合田俊幸の原稿
みなさま、本日はお集まり頂きまして誠にありがとうございます。塩狩ヒュッテ代表の合田俊幸と申します。
この塩狩ヒュッテ建設にあたりましては、大変長い時間がかかり、多くの皆様にご心配もおかけしました。お詫び申し上げます。
しかしながら、多くの皆様のご支援があり、ついにこの日を迎える事ができました。本当にありがとうございます。
今後、この塩狩ヒュッテは、和寒町内外、国内外を結ぶ中継基地として機能し、元気なまちづくりに貢献できればと考えております。
次の夢は、人々が楽しめる塩狩温泉にしたい、世界に誇るWassamu Museumをつくりたい、そんなふうに考えています。
和寒町は、どうかこれからも、チャレンジャーを応援し、人々が目を輝かせ、夢を膨らませる町であって欲しいと思います。
Hi there,
This is Shiokari Huette Youth Hostel in Wassamu town.
Wassamu town is so beautiful place.
Please come to my hostel.
We are looking forward to seeing you!
ありがとうございました。
月刊わっさむ
2013年5月28日、ラジオ「月刊わっさむ」に合田俊幸が出演させていただきました。
http://www.ustream.tv/recorded/33425265にて、動画+放送された音声が視聴できます。(動画の初めの2分28秒くらいまでは音が出ませんので、それ以降で音量調節をして下さい。)
私の出演は今回が初めてですが、前回以前の月刊わっさむもぜひご視聴下さい。
讀賣新聞 2013年05月17日(金)版より引用
建物も料理も道産 合田さん塩狩にヒュッテ開業
和寒町
エフエムなよろ AIRてっし 2013年05月15日(水)13時より放送
お昼の公園通り まちかどリポート
北海道新聞 2013年05月08日(水)版より引用
塩狩ヒュッテプレ開業
和寒
【和寒】町内塩狩のJR塩狩駅そばで
(鷲見紀子通信員)
(
北都新聞 2013年05月05日(日)版より引用
「塩狩ヒュッテ」が完成
和寒にユースホステル誕生
合田さん 温泉再興目指し建設
「地域内外つなぐ拠点に」
【和寒】
道北日報 2013年05月04日(土)版より引用
塩狩ヒュッテ 民間の宿泊施設
営業は8年ぶり
和寒町 -合田俊幸さん オープン迎え-「町の外と内をつなげる場所に」
和寒町塩狩峠に4月30日に「塩狩ヒュッテ」(合田俊幸代表)がオープンした。町内の民間宿泊施設の営業は8年ぶりで、6月にはユースホステルの認可も下りる予定となっている。合田代表は「和寒町の外と内をつなげる場所にしていきたい」と話しており、塩狩峠の活性化に期待が寄せられている。塩狩峠には80年以上続いた旅荘塩狩温泉が営業していて、かつてはユースホステルも経営していたが05年に廃業している。和寒町出身の合田さんは大学で建築を学んだ後、東京や大阪などで就職していたが、北海道で家を建て旅館業を営みたいとの思いから和寒町にUターンしてきた。塩狩ヒュッテは塩狩駅にある長野政雄顕彰碑横の町有地に建てられ、町が町有地の貸与や建設の補助を行なっている。木造2階建ての建物は昨年秋から合田さんが建設してきたもので、道産のトドマツをふんだんに使った丸太小屋風のものとなっている。客室は5部屋で定員は14人。簡易宿泊業としての認可が下り30日から営業を開始し、さっそく宿泊客が訪れるなどしている。合田さんは「冬期間の建設には苦労したが、地域の人の協力もありオープンさせる事ができた。和寒町の外と内をつなぎ、都会の人にほっとしてもらえるような場所にしていきたい」と話している。塩狩ヒュッテでは宿泊客に北海道や和寒の特産を生かした家庭料理を提供するほか、休日などには喫茶店としての営業も行なっていきたいとしている。6月からはユースホステルとしての認可が下りる予定となっており、ユースホステル会員は宿泊料が割引される。宿泊などの問い合わせは塩狩ヒュッテ(電話32-4600)までするとよい。
北海道新聞 2012年11月29日(木)版より引用
「旅人の憩いの宿に」 Uターンした合田さん 和寒 「塩狩ヒュッテ」建設中
【和寒】町内のJR塩狩駅近くで、宿泊施設「塩狩ヒュッテ」の建築が進んでいる。建て主の合田俊幸さん(37)=同町三笠=は、「旅人がくつろげる宿にしたい」と張り切っている。同駅北側の町有地を借り、来年2月のオープンを目指している。木造2階建てのべ約130平方メートルで、部屋数は5室(収容人数14人)。談話室(兼食事室)や風呂なども備える。合田さんは和寒出身。「あこがれの北海道で女将(おかみ)さんになりたい」と夢見ていた大阪出身の妻の康代さん(42)と、「ふるさとで宿泊施設を経営したい」という合田さんの願いがマッチし、今年2月に大阪からUターンした。ヒュッテは高校、大学で建築を専攻していた合田さんが設計し、今年春から施工している。建築に当たっては町の助成金などを利用している事もあり、合田さんは「かつて栄えた塩狩温泉のにぎわいを少しでも復活できれば」と話している。(鷲見紀子通信員)
道北日報 2012年6月21日(木)版より引用
塩狩にユースホステル建設 和寒町議会第2回定例会 補正で助成支援、10月開業予定
塩狩峠に建設を計画しているユースホステルについての助成支援を行なった。
このホテルは塩狩峠記念館近くの町有地を貸与し、6月下旬に着工、10月の開業を目指すもので、定員は12人となっている。
北都新聞
2012年6月23日(土)版より引用
塩狩峠にユースホステル建設 合田さん「再興」願い 10月オープン
【和寒】塩狩峠に今秋、ユースホステルが誕生する。「塩狩ヒュッテ」のネーミングで、
道産トドマツの丸太を壁の表面、柱とはりで使用する北海道の大自然にマッチしたデザインで、 JR塩狩駅の隣接地に建てられる。
北海道での暮らしに憧れていた合田康代さん(41)が和寒の塩狩峠でユースホステルをと3年ほど前から構想。
町も建設を支援しようと町有地を貸与、建設費の一部を補助するなどバックアップする。
ユースホステルは、JR塩狩駅に隣接する場所に建設され、木造2階建て、延床面積は約132平方メートル。
道産のトドマツ200本を丸太にし、壁の表面に見えるように配置するポスト&ビーム工法で建設される。
二段こう配(ギャンブレル)屋根で北海道の雄大な景観にマッチするデザイン。客室は2階に5室あり、定員は12人。 6月下旬に着工、10月中旬のオープンを目指す。
合田さんは「塩狩峠の再興に強い思いがあった。小さな宿ですが、都会の人にはのどかな自然を楽しんでもらい、
地元の人にもカフェなどでくつろげるスペースを提供したい」と話している。
道北日報 2012年6月22日(金)版より引用
刺針
塩狩峠は和寒町の玄関であり、かつては石狩と天塩の国境でもあったことから「塩狩」と地名がついている。
三浦綾子さんの小説「塩狩峠」で全国的に有名となり、発表から40年以上たった今でも小説のファンが訪ねてくる場所でもある。
また桜の名所「一目千本桜」としても知られており、好天が続いた今年の春は満開の見事な風景を見ることができた。
塩狩峠には道北でも歴史のある温泉があって、多くの旅人が訪れていたが05年に惜しまれつつ廃業。
以後は建物も老朽化していく一方で、国道沿いの古びた建物を見る度に残念な気持ちになっていた。
数々の魅力があり、和寒の名所でもある塩狩峠だが「町民の関心が薄れているのでは」と以前にこの欄で書いたこともある。
和寒町は昨年から塩狩峠周辺を1年通して魅力的な場所にしようと植樹や花壇の整備などの環境整備を行なっており、
またこのほど民間のユースホステル建設の計画も立ち上がった。
新しいユースホステルは10月中旬の開業を目指して建設が行なわれる予定で、
この新しい動きは塩狩峠に再度注目が集まるきっかけにもなっていくだろう。
峠は人の往来を阻む難所でもあるが、峠を越えた先には新しい出会いがあるもので、町の中と外を繋ぐ場所にもなるだろう。
もっと和寒町の地域ブランドである塩狩峠への関心を高め、官民問わず活用方法を模索していってほしいものだ。(五)
道北日報 2012年6月22日(金)版より引用
塩狩峠再興の拠点にと 和寒町 長野政雄顕彰稗横に建設 ユースホステル
和寒町塩狩峠に新たに民間のユースホステル建設の計画が立ち上がり、町は町有地の貸与や建設の助成などを行なった。
塩狩峠には80年以上続いた旅荘塩狩温泉が営業しており、かつてはユースホステルも経営していたが、05年に廃業した。
ユースホステルは世界ユースホステル連盟に加盟する宿で、安価で宿泊できることから世界中の旅行者に愛用されている。
国内のユースホステルは1972年に587軒で旅行者も63万人だったが、現在ではホテル数も半減している。
新たに建設するユースホステルは塩狩駅にある長野政雄顕彰稗の横の町有地に建てられるもので、
町は19日の第2回定例町議会で町誘致の貸与や建設の補助を補正予算で対応した。
建物は道産材のトドマツをふんだんに使った2階建ての丸太小屋風で、客室は5部屋、定員は12人となっている。
和寒町在住の合田康代さんが経営するもので、6月末に着工し、10月中旬ごろの開業をめざし、
宿泊のほか喫茶店などの営業も行なっていきたいとしている。
合田さんは「塩狩峠再興のきっかけになってほしい」と話しており、40年前のバックパックブーム世代や、
東京や大阪等都市部を中心にPRを行なっていきたいとしている。
ペオッペ駅逓所跡 ペオッペ駅逓所跡における掲示内容
和寒-幌加内道路の開通に伴い、1909年西和14線のこの地に官設のペオッペ駅逓所が開設され、当時は和田常太郎が経営に当り、後に佐藤龍吉に引き継がれた。
当時、幌加内までは鉄道が通じていなかったので、幌加内の人々が鉄道を利用するには、約8里(32km)の道を和寒駅まで出なければならなかった。
駅逓所では常に数頭の馬を用意しており、旅客、郵便物、生産物、荷物などを輸送すると共に宿泊所を兼ねており、和寒-幌加内間の交通輸送の中継所として重要な役割を果たしていた。
1926年、国鉄深名線が鷹泊まで開通したので1928年廃止された。
国設塩狩スキー場 跡 「和寒町史 1975年発行 和寒町 著」より引用
1962年に塩狩駅東向かいの国有林を整備し、1963年2月オープンした。1000mの中級コース、650mの大衆コース、3000mに及ぶツアーコースがあり、積雪がよく4月まで利用でき、美しい樹氷も見られ、中腹には99m2のヒュッテがある。
* おそらく営業は数年程。2012年現在、一帯は林になっている。
年表 わっさむの歩み (和寒町のウェブサイト)
地理概要 和寒町の東側には、鉄道・国道40号線・高速道が縦断しており、市街地がある平野部のほぼ東端でもある。この国道40号線と並走する道が西に連続する。約500m間隔で2号から8号まではあり、8号は平野部のほぼ西端。
一方、前述の○号と直行する(東西に走る)道は、5線から23線まではある。これもほぼ500m間隔で北側の5線から連続している。塩狩バス停の北隣のバス停が"27線"なので、27まであるのかもしれない。1線から4線は剣淵町にある。
和寒町の各地域は北から順に次の通り。東和、大成、北原、日ノ出、松岡、菊野、東丘、西和、三和、東町、北町、西町、南町、三笠、川西、朝日、中和、福原、南丘、塩狩。
「1986年4月1日発行 郷土読本 わっさむ」より引用
1 大昔の和寒 (1) 最初に住み着いた人々
私達の町に最初に住みついた人々はどこから来たのか、どんな人々であるかはよくわかりません。しかし、日常生活の為に使った土器や土器の破片が発見されています。これらの遺物を通して生活していた時代を推測する事ができます。
土器については残念ながら一つの破片しか発見されず、土器を作った人がその場所で使ったものか、誰かが落としたものかよくわかりません。
この土器は、北筒式土器(注1)と呼ばれるもので、作られた時代は、縄文中期頃と言われています。
石器については、西和、福原を始め、中和、東丘一帯で採集されています。
一番完全な形で保存されているのは、三笠の下井辰雄さんの畑から採集されたもの(注2)です。これらの土器の採集された場所は、ペオッペ流域、和寒川の上流サクルクシュ・ケネフチ(注3)、マタルクシュ・ケネフチ(注4)の流域や、小さな沢の湧水の周辺であり、何れも水の近くという共通点があります。
石器を使った人々は、非常に長い間厳しい自然と戦いながら親から子供へと生活を伝えていったのです。
注1 道東、道北に分布し、今から約3000年〜5000年前のもので、旭川周辺でも発掘されている。
注2 縄文時代
注3 剣淵川の上流で、アイヌ語、夏の・道・通る・剣淵川 (北海道の川の名、山田秀三著)
注4 剣淵川の上流で、アイヌ語、冬の・道・通る・剣淵川 (北海道の川の名、山田秀三著)
(2) 交通の要路としての和寒町
和寒川は、天塩川から石狩川に出る通り道としてアイヌの人々が利用していました。天塩川から支流のケネフチ川(剣淵川)をのぼり、中和18線で2つに分かれます。
1つはマタルクシュ・ケネフチで、この川を通り比布を経て石狩川に通じ、他方はサクルクシュ・ケネフチを通る道で鷹栖、近文を経て石狩川に出ます。この2つの道が利用され、アイヌ語で、夏の道、冬の道と名付けられたものと思います。他の川もアイヌの人々が魚を求め、熊を追いながら生活をしたものと思われます。和寒町に流れている川の名前も、その頃の事をしのぶペオッペ川(注1)、タツネウシ・ペオッペ川(注2)、シブンナイ川(注3)、ワッカウエンナイ川(注4)等があります。
徳川幕府は寛政(1789〜1800年)以後になると北の守りの為に、エゾ地探検を盛んに行いました。近藤重蔵や松前藩の役人達も、天塩川から石狩川に出る為に和寒の地を通ったものと思われます。
資料
幕府の上川探検は記録に残されているが、和寒地域の事に関しては明らかなものはない。塩狩の須貝氏宅前庭にある「近藤重蔵ゆかりの地」なるものは、昭和の初め(1926年〜)に同氏宅横のマタルクシュ・ケネフチの土木工事の時に一振の脇差が発掘された。当時、工事監督の佐藤千州氏(1986年当時旭川市在住)の話によると、脇差そのものは錆ついていたが、三葉葵の紋(徳川将軍家の紋)の彫った立派な
鍔がついていた。近藤重蔵が天塩川、和寒川と、のぼって来た時、同地で供の者が病没、その死をあわれみ脇差もろとも埋葬したとの事で記念碑を建立している。しかし、病没者の骨も発見されず、鍔も手もとにはない現在、この事に疑問はあるが、幕吏(ばくり)は当地を通った事だろう。
注1 上流がいつもじめじめしている川の意
注2 かばの木が沢山はえている沢の意
注3 うぐいが沢山いる川の意
注4 汚れていて魚のいない川の意
2 開拓の初めの頃 (1) 鉄道が敷かれる
1895年頃、既に和寒町の現市街地にがん皮(び)小屋を建て生活をしていた人がおりましたが、名前は、はっきりしません。
明治30年代(1897年〜)に入ると、北海道の原野は、非常な速さで開拓が進められ、1897年5月、天塩線(現宗谷本線)の工事が、旭川から始められました。
和寒の鉄道工事の12線踏み切りのそばに、菊池伊七さんは、がん皮小屋を建て、鉄道工事の人達の食べ物や飲み物を売り、名寄、士別方面の旅行者の馬宿(ばじゅく)も開業していたという記録が残っています。
1899年の春には、12戸の家が市街地にできました。家の造りはみんながん皮小屋でした。駅前と国道に平行して、大通りがわずかに刈り分けられただけで、一面が野地(やち)で、じめじめと水が溜まり倒れた木を渡らなければなりませんでした。また、駅のそばは、池になっていました。
この年7月1日、剣淵屯田兵と家族600名(第2回は7月12日600名)が朝8時頃旭川を出発し、蘭留からは工事中の線路を徐行して昼頃、和寒に着きました。屯田兵の人々は、荷物を背負って、剣淵の屯田兵宿舎まで12kmの道程を歩きました。
旭川から和寒まで鉄道が開通したのは1899年11月15日です。ここに和寒の本格的な開拓の第一歩がしるされました。
注1
入植当時は、まかばの木が多く、その皮をむいて屋根をふいたり、壁板の代わりに用いた。また、細く丸めて夜間の灯(ひ)に使った。
注2
1874年北海道の防備、開拓、士族授産等を兼ねて、屯田兵が制定され、1899年士別(しべつ)・剣淵屯田兵が入植、士別、剣淵屯田をもってこの制度は打ち切りとなる。
(2) 駅前と大通り
1899年、駅前道路(幌加内道路)が5号まで笹が刈り分けられ、大通りも開かれました。道路はじめじめしており、草も伸び、歩き難い通りでした。当時、駅員は6〜7名で保線は10名程でした。汽車は1日1往復で(午前下り、午後上り、)1日12〜13人。冬はほとんど乗り降りする人がおりませんでした。
木材は豊富で、一面が木の海でした。しかも草が2メートル以上ものび、すぐ前の人が見えないくらいでした。アブが多く昼でも蚊帳を吊らないと食事も出来ず、手や足に真っ黒になる程付きました。
1901年に土地が民有地に移り、入植者の往来が盛んになりました。これらの人々をあてにした旅館、風呂屋(注1)、豆腐屋ができ、矢久保佐助さんが大通りの角に荒物雑貨商と小樽木材株式会社の仕事を始め、ようやく市街地らしくなりました。
1902年以後は、原野(現在の西和方面を除いて和寒原野と呼んでおりました。)への入植が急速に進み、1904年には三井物産造材部和寒出張所ができる等市街地は一段と活気付いて来ました。
| 年次 |
市街地(戸) |
原野(戸) |
計(戸) |
備考 |
| 1899 |
12 |
1 |
13 |
|
| 1900 |
15 |
1 |
16 |
鉄道関係戸数(含7戸) |
| 1901 |
25 |
0 |
25 |
同上 |
| 1902 |
25 |
50 |
75 |
|
| 1905 |
70 |
250 |
320 |
|
| 1907 |
100 |
400 |
500 |
|
和寒戸数増加表 和寒村沿革概誌より
入植者の大部分は、和寒に第二の故郷を求めてやって来た人々でした。生活の目安が付くと次に心配なのは、子供達の教育です。1904年6月、屯田兵時代の空家を借りて勉強が始められ、これが和寒小学校の始まり(注2)です。
通学する子供達は、原野や市街地から通い、原野から通う子供達は大変苦労しました。
注1
宿は、掘立て小屋のがん皮小屋で、割板を敷きその上に俵ごもを敷いていた。付近の川で取った魚に、卵の味噌汁で料金は50銭(白米60kg5円)。
風呂屋は1901年から始められ、1.5mに2m程の浴槽。底にトタン板をうったもので、代金は2銭。-我が郷和寒より-
注2 剣淵尋常小学校分教場として、1学級33名で出発、1905年11月和寒簡易教育所として独立する。
(3) 和寒原野とペオッペ原野
1902年、星長治さんら相馬団体は中和地区に、架田七太郎さんら越中団体は菊野地区に入植し、続いて山形、徳島、佐賀県の人々の団体移住も行われました。楡、白楊(はこやなぎ)、雑草が生い茂り、熊、狸、狐の遊ぶ原野にも開拓の鍬が下ろされるようになり、1908年にはペオッペ原野(注2参照)と合わせて500戸の開拓農家が入植しました。大正(1912年〜)の初め頃までに、長峯農場(三和)、河西農場(川西)、一柳農場(中和)、角館農場(菊野)、河野農場(東和)、三井農場(大成)等の農場(注1)ができ、入植者の中には自作農家もありましたが、多くは、農場の小作農家として入植しました。
1907年の春、中和20線に入植した涌井藤七さんが自分の土地にある、「湧き水」を利用して、33平方メートルの水田を作り、約1.5kgの種もみをまき7.5kg程の米を取りました。1902年に谷口枡五郎(朝日)が稲作をした記録が残されております。米作りの成功は農家の人々を元気付け、1912年には約30ヘクタールの水田が原野にできました。
第1次世界大戦(1914〜1918年)の影響を受け1916年から1918年にかけて、日本製麻和寒工場、帝国製麻和寒工場が建てられ、それぞれ約40名の労働者を雇い入れ、村の経済も潤い、原野の開拓も進みました。
1902年屯田兵の請負で西和14線までの道路が作られ、ペオッペ原野(注2)への入植も容易となり、1904年に高森初次郎さんら越中団体が入植し、ペオッペ原野の開拓が始まりました。1908年、14線に駅逓
(注 交通通信参照)が作られペオッペ原野は、幌加内に通じる重要な
通路となりました。しかし道路といっても木や笹、雑草が生い茂り、まるで青い天井の隧道の中のようなものでした。
1909年1月ペオッペ特別教授所(西和小学校)が開かれ1学級19名の学校が誕生し、入植者が子供達の為に安心して働く事ができるようになりました。翌年にはペオッペ川流域の沢から砂白金が発見されるなど原野全体が活気に満ちて来ました。
注1 1886年北海道庁が設置され、北海道土地払い下げ規則が公布された。同法に基き1887年から1888年にかけて上川郡の植民地選定調査が行われた。1897年には新たに国有未開地処分法が制定され、1901年、和寒、ペオッペ両原野の区画測定(1戸分の区画割を15000坪=5ヘクタール)が行われ団体移住、大農場の小作移住が奨励され特に多くの農場小作が実現した。
注2 現在の西和地区全体を指し、1934年の地名改正までペオッペと呼ばれた。現福原は覚礼(かくれい)原野と呼ばれた。ペオッペ原野15線を通り、幌加内へ急いだ旅人達も、左の方は樹木が生い茂り原野の存在がわからなかったのに由来するらしい。1934年当時、和寒で1番農業生産の低い覚礼地域を将来、一番豊かな地域にと、福原と改名した。
資料 A 1902年の7月、11人の家族は和寒村の13線西20番地に1戸分5町歩の土地を払い下げられ和寒に入った。駅前の菊野伊七氏の店に休んで13線の幌加内道路を進んだ。荷物といってもほんの僅かを各々背負って和寒川から向こうは野地で水溜りとなっていた中を、更に道路から170間程山の中に入った。がん皮を切って2間に3間の拝み小屋を立て笹を刈って敷き詰めその上にむしろを敷いた。
4尺に6尺の大きな炉を切って、大きな木を割ってどんどん炊いたもんだ。当時の食べ物は麦4升に米5合くらい、金っていうものはまるきり持っていない。貧乏してきたのでからどんな苦労しても何とも思わない。辺乙部川に出て盛んにやまべをとった。それを焼いては市街の菊池氏に買ってもらって米を買ったが、米は1升11銭で、2〜3升くらいより買えなかった。灯火と言ってもカンテラを灯したり、またがん皮の皮をなって火を点(てん)じたりしていた。
B 1906年8月 午前11時頃幌加内道路を大きな熊が横切って市街裏の笹原の原野に入った。今の15線の和寒川の川べりである。鉄砲はわずか3丁ばかりで中には火縄銃を持ち出す人もあった。・・・・・・・・・・・・28貫(28×3.75=105kg)という牡(おす)熊で当時市街の人家は50戸程であったが、皆は肉を食べた。-我が郷和寒より-
3 開けゆく和寒 (2) 菜種、麦、じゃが芋の荒山(あらやま)生活
笹と木の生い茂った土地に入植した人々の生活は並大抵のものではありません。まず、着手小屋(注1)を建て生活の目安を立ててから家族全員で入植しました。
農機具は窓鍬、島田鍬、笹刈りかま等でした。細い木は切り倒し、太い木は枝のみ切り払い、笹は刈って焼き払いその後に菜種をばらまきにしました。菜種は発芽が良く笹の成長を抑える為、笹の根が腐り、翌年から、鍬で耕すのが楽になります。その上、菜種は大変良い値段で売る事ができました。菜種の後にはいなきび、青えん豆(どう)等が栽培され、主食は麦、いなきび等で、お盆とお正月にのみ白米のご飯を食べました。
明治末(〜1912年)から大正(1912年〜)にかけ、じゃがいもが栽培され開拓期の豊かな土地は、大変良い収穫をあげる事ができ、当時の大事な食糧となりました。第一次世界大戦の影響を受けて、西和、東和、三和等では、水車を利用して澱粉工場が建てられ澱粉成金と呼ばれる人々も現れました(注2)。この他お金になる作物として除虫菊、米作りが広まるまでハッカが栽培されました。西和、東和、大成等の山林では木炭が焼かれ農家の冬における良い収入となりました。
| 白米 |
60kg |
5〜5円20銭 |
| 酒 |
1.8L |
60銭 |
| 宿料 |
1泊食事付 |
50銭 |
| 木炭(上) |
37.5kg |
20〜22銭 |
| なたね |
180L |
6円 |
| 黒砂糖 |
600g |
12銭 |
| 石油 |
1.8L |
30銭 |
| 市街地 |
1戸分(5ha) |
70〜100円 |
1904〜1905年物価の例-わが郷和寒より
注1 入植すべき土地に仮小屋を建て、大人が通いで開拓し、生活のめどを立ててから全員で入植する。
注2
第1次世界大戦(1914-1918)は日本の経済に好況をもたらし、北海道農業の黄金時代であった。中長(ちゅうなが)、金時、手亡(てぼう)、青えん豆、澱粉、亜麻等は高値を続け、色豆は1俵10円、5円。澱粉は1袋19円、青えん豆1俵20円、畑作反収50円の文字通り黄金時代。
注3 この外、東和、西和では豊富な林産資源を利用して下駄棒(しな、しころの木を利用した下駄の半製品)を作り、本州方面に出荷した。
(2) 砂白金(さはっきん)
ペオッペ川流域の沢から砂金が最初に発見されたのは、いつであるかははっきりしていません。1910年の夏、5線の沢で砂白金が採取され、翌年春には約100人の人夫を使って大規模な採取が行なわれました。よく取れる所では3.3平方mから26gくらいとる事ができました。
注1注2
大正(1912〜1926)の中頃が最も盛んで1日、3.75gは採取する事ができ、農家の人々の中には農閑期に砂白金取りを行なう人もいました。
太平洋戦争中の1943年資源不足から砂白金の採取のために帝国砂白金有限会社が設立されました。会社は朝鮮人労働者や日本人
労働者をたくさん使って採取を行ない(注3)、年間に約750グラムの砂白金が生産されました。
注1 我が郷和寒
注2
3.7グラムはキセルのタバコをつめるところ一杯ぐらいのもので砂白金(通称シロ)、砂金(通称アカ)がある。
注3
朝鮮人は強制徴用された労働者で約50名、日本人挺身隊約30名。
この外にタコと呼ばれる土工が約30名それぞれ就労していた。
(3) 交通、通信
和寒は、国道が南北に走り、市観地より西へ幌加内道路が走っています。これらの道路を中心に各地に通ずる道路が作られました。
1900年、駅前から5号まで道路が作られ、1902年にはペオッペ14線まで屯田兵により刈り分けの道路が作られました。その頃の和寒川、
ペオッペ川は曲がりくねり、倒れた大木や枯れた枝が水の流れをとめ、雨が降ると洪水になりました。普通でも道路は悪く、幌加内道路はぬかって歩けず、馬はもちろん、人間でもぬかって草鞋が脱げてしまったという事です。
和寒原野や市街地ではぬかる道路に丸太を敷き並べて、その上を人や馬が通りました。
1909年ペオッペ14線に駅逓が設けられ、幌加内への郵便物や旅行者の便宜がはかられました(注1)。この道路は大正(〜1926)の終わり頃まで大変栄え、冬等は木材運搬の馬や幌加内への生活物資を運ぶ馬橇が50〜60台も列をつくって歩く姿がみられました(注2)。
夏の運搬には、馬車を使うのですが、最初の頃は道路がぬかって使えませんでした。しかし、だんだん道路も良くなり、部落の隅々まで馬車が通るようになりました。
和寒郵便局は、1906年3月、須貝広夫さんを局長に迎え、他に局員1名という人数で、市街地北町に開かれました。1908年になり、和寒郵便が始めて郵便物を各家庭に配達するようになりました。1925年、南町に新しい局を建てて移りました。翌1926年には、電話の加入者が36になり電話交換事務が始められました。
注1 「官費を以て建物、馬の一部又は全部を設備し、手当金を出して旅宿と人馬の継立と郵便継立を行なう」ペ
オッペ駅逓には馬宿や予備の馬が用意され、駅逓の他に1軒の旅館があった。駅逓の認可は1909年1月15日であるが1908年の秋頃から開設していたのであろう。
注2 1928年、村の交通機関、馬車229台、馬橇477台、白転車201台、オートバイ1台 -我が郷和寒より-
(4) 米作りと酪農
1907年、米作りに成功した涌井さんは、翌年20アールの水田を作り、10アール当
り120キロの収穫がありました。水田作りは、まず中和地区に広がり、次いで三和地区で作られるようになりました。1913年には50ヘクタールの水田が作られました。
西和では、稲場藤次郎、米陀加藤次郎さんらが1915〜1916年頃に米作りを試みましたが、本格的に取り組んだのは加藤兵蔵さんで、1920年に約50アールの水田に稲を植え、10アール当り360キロの大収穫を得る事ができました。同年東和の山口芳治さん、大成の中山伊勢吉さんがそれぞれ米の収穫を得る事が出来ました。水田作りは第1次世界大戦後、米価が値上り、他の農作物の値段が下がった為に和寒全体に広がって行きました。
水田が増えるに従い、大きな川の無い和寒では、水不足が大きな問題となり1922年和寒土功組合を結成しました。1923年には、水不足を無くする為にオペッペ14線と和寒原野23線に貯水池が(注1)作られました。ここに水利権をめぐっての剣渕との争いも解決し水の心配は無くなりました。
水田を作る事に水利権は大変大事な問題で、水を自由に使えるようになった農民のよろこびは大変なものでした。三和、中和には水利権の獲得の記念碑が建てられています。
1930年、三和の大西富松、中和の佐藤徳治さんらが温床育苗(注2)を試み、翌年5アール程を植えてみました。この年の大凶作にも関わらず良く実り、冷害を防ぐ新しい農業技術として
広まりました。松岡農場の支配入小川義雄さんはこの方法を更に改良し冷床育苗に成功しました。しかし、その後も農家の人々は約3年に一度の冷害(注3)と戦わねばなりませんでした。
1910年に、初代和寒郵便局長須貝広夫さんが南部牛を12頭購入したの
が和寒における酪農の始まりです。その頃の牛乳は白家用として飲むだけでした。1924年、和寒酪農組合を作り、牛乳分離所が建設されてから牛を飼う農家が増え、昭和(1926年〜)の初めには、酪農戸数が100戸余りにもなりました。1931年、南雲源一郎さんらは冬の飼料を保存する木製サイロ(注5)を作りました。これが和寒における最初のサイロで酪農事業が一段と進む事になりました。
注1
西和、中和の貯水池は1922年4月着工。西和貯水池総工費11万2干円、1925年9月竣功。中和貯水池総工費40万2千400円、1924年5月竣功。当時の土木工事はシャベル、ツルハシ、トロッコが主な道具で、タコ都屋と呼ばれる飯場で寝食をし、厳重な監視のもとで、労働に従事した(逃走を防ぐ為)。もし逃亡者がつかまった場合はみせしめの為過酷なリンチが行なわれた。
注2
当時は直播といって、もみを直接水田にまいた。小川氏の冷床育苗というのは、現在の温床の熱を上げる為に床にわらくず、堆肥を入れたもので、三和地区で行われたこの方法は、全道でも最も進んだものだった。
注3
1913年。1922年。1923年。1926。1931。1932。1934。1935年。1940。1941。大正(1912年〜)以来1945年まで11回の凶作不作がある。
注4
馬については荒山の開墾、物の運搬に欠かせぬ家畜で、1907年頃からの入植者は馬を持って来た。1915年には668頭を数えるに至り、昭和(1926年〜)にかけて上川の馬産地として良馬を産出した。
注5 直径約三メートル、高さ約八メートル。
(5) 除虫菊の栽培
1910年の秋、
和寒原野23線に移住した小畑藤市さんは、ハッカの仲買いをしながら、夫婦岩の麓近くに除虫菊を栽培しました。これが和寒における最初の除虫菊です。当時は、北海道の各地で除虫菊の栽培が試みられていました。それは、除虫菊が傾斜地・台地・平地を問わず栽培でき、しかも気候にも適していたからです。
原野に往む人々の心を一番とらえたのは利益が多い事で、たちまち除虫菊の栽培が広まりました。除虫菊栽培の有利なことを主張した坂下さんらは、除虫菊栽培農家の経済の安定を図る為に、1918年12月、「和寒除虫菊製粉株式会社」を設立しました。大正の終わり(〜1926年)から昭和の初め(1926年〜)が最も盛んで、7月から8月にかけて東京から大学生のアルバイトを雇い、菊刈りや菊こきを行ないました。1926年、和寒の除虫菊の作付面積は北海道全体の約10パーセント、生産量で約11パーセント、和寒の農作物生産総価格の中で20.5パーセントを占めていて、除虫菊日本一となりました。
しかし、1936年をさかいに、連作で地力が下がって収量が落ち、除虫菊の栽培は次第に減って行きました。
| 年度 |
作付面積(町) |
反当収量(貫) |
単価(円) |
| 1915 |
2.3 |
15.0 |
5.50 |
| 1918 |
23.4 |
15.0 |
6.50 |
| 1921 |
17.9 |
14.0 |
6.05 |
| 1924 |
56.0 |
12.0 |
5.30 |
| 1927 |
78.8 |
6.0 |
3.00 |
| 1930 |
107.3 |
9.6 |
2.20 |
| 1933 |
120.9 |
6.0 |
5.10 |
| 1936 |
132.5 |
5.6 |
2.05 |
| 1939 |
95.6 |
6.1 |
7.00 |
1915〜1939年の除虫菊作付と価格(和寒村安定農家適正規模調査より)
注1 1927年の統計資料による。
資料 A 和寒の駅を降りて市街地の大通り、中央、右手 に平屋柾ぶきの至って貧弱な建物があり、日本印和寒除虫菊製粉株式会社と云う五尺もの長い板の看板をぶら下げていた。・・・・・・・・・・・・1919年の春、
駅前のなだらかな高地、2戸分すなわち10町歩を先ず3200円で買収し全部に除虫菊を植え付けた。
石混りの傾斜地で全く菊でも作らねば他に仕方のないと云った土地で、廃地を利用する除虫菊の栽培に絶好のものであった。
B 見渡す限り白花の波、その心地よき眺めを見ずや、この花の一つ一つ皆黄金の一粒も比せん、これ反収150円内外をあげつつある和寒村除虫菊畑の盛観、我が和寒村はかくの如き誇ある特殊産物の産地としてその名重きを為す、乞う和寒に来てこの盛況を見よや。
-A、B 共に「北海道の除虫菊」より、Bは当時の広告文-
4 剣淵村から分かれて (1) 和寒村の誕生
1899年5月、剣渕外三か村戸長役場(注1)が剣渕に設けられました。戸長のもとには、各村から選挙で選ばれた総代人(注2)2名とその補助機関としての組長
が置かれて、地方の行政が行われました。1906年剣渕村が誕生しましたが、和寒市街地や原野は剣淵村役場より遠く離れている為、住民はいろいろと不便でした。その頃和寒は、
既にに市街地、原野合わせて500戸の人家があり、
駅からは多くの木材を地方に送り出す等大変賑やかでした。
1909年6月、村会議員や部落(注3)の代表が集まり和寒分村同志会が結成されました。部落の多くの人々の賛威を得て、北海道庁や上川支庁に分村独立の請願書を出しました。その主な理由は次のようなものでした。
・幌加内への道路も開け、市街地には商人や物資が集まる等、戸数、人ロが増加した。
・郵便局、巡査駐在所ができ、和寒、三和、中和、西和の小学校が出来た。
・屯田兵により開村した剣渕とは意見が合わない。
・駅があり、しかも剣渕村とは遠く離れている。
・和寒の生産が高まって来た。
このような理由に基づいて、部落全員で剣渕村議会に働きかけ、1914年、ついに村議会一致で分村に決まりました。
1915年4月1日、私達の町、和寒か独立誕生しました。和寒村7600人余りの村民は分村独立を記念して、4月18日、昼は旗行列、夜はちょうちん行列をしてお祝いをしました。
村長は北海道庁より任命されましたが(注4)、村会議員は選挙が行われ、任期2年の12名の議員が選はれ、村の政治が始まりました。村は、年々開拓が進み、
人ロも増えました。1934年には改名改正が行われ、東和、西和は小学校の名前に合わせる等、現在の地名に変りました。翌1935年、村が生まれてから20周年を迎え、戸数で1500戸余り、人ロは9300人と増加しました。
注1 同年増毛支庁より上川支庁管轄下に入る。3か村は士別村、多寄村、上名寄村である。
注2
1878年、開拓使布令第1条、1町村毎に年令20年以上の男子にて管内に100円以上の地券を有する該町村本籍の2名を選挙して之を町村総代人とする。但し100円以上の地券を有するものなき町村は中等以上の身代にして管内不動産を有するものを撰むを得べし。
注3 市街地部落、和寒原野部落、ペオッペ原野部落の三部落。
注4
2級町村が施行された。これは1902年4月施行された北海道独自の行政機構で、町村長は道長官が任命で、書記は支庁で任命、給料は道が負担、地方白治体の負担の軽減を計る。
資料
和寒村役場は茲に新に設置せらるる・・・仮庁舎は和寒市街地40番地に建設してある武田吾市の持家にして目下内部の模様替・・・
新任村長の内命を受けて和寒へ出張 を命ぜられたる上川郡士別書記関根源三郎は、先づ仮庁舎に到着・・・
小職は剣渕村書記宇津木、使丁となる武田三郎と協力、明日午前8時開庁執務に支障なからんを期せり。・・・
鶏鳴一声4月1日を迎へんか、健全無病なる本村は母胎を離れて清き且つ新鮮なる空気の中に弧々の声を挙げんとする前夜、たまたま任を新村の事に受け而かも開庁の準備に指を染めて責任ある宿直勤務に服す。
3月31日宿直者鈴木書記の日誌の一部 和寒村沿革概誌より
(2) 松岡農場の解放
上川地方は、1887年以後、個人、団体移住による自作農民や農場の小作農民によって開拓が進められて来ました。松岡農場(注1)は大阪の松岡汽船株式会社社長松岡修吉さんの農場で、1921年、神戸の伊藤英一さんから買った事に始まります。
農場の面積は市街地の南町、北町、東町、西町の宅地の大部分と三笠、日の出、大成、松岡の農耕地、山林を含めると実に790ヘクタールの広いものでした。この広い土地を耕していたのは、土地の持ち主ではなく、小作農民と呼ばれる人々で、1921年頃は和寒の農家全体の約60パーセントを占め、これらの小作農民は地主に対し、地代として小作料を支払っていました。
| 所有者名 |
所有面積(ha) |
| 松岡農場 |
802 |
| 三井農場 |
365 |
| 川村同族会社 |
238 |
| 佐藤農場 |
194 |
| 相馬合名会社 |
194 |
| 河西農場 |
174 |
| 天塩銀行 |
172 |
| 上村治作 |
167 |
| 角館農場 |
157 |
| 拓銀旭川支社 |
148 |
1927年、本町における大土地所有者 1〜10位 -我が郷和寒より-
小作料は、米、えんばくで納めたり、また、一部をお金で納めましたが、一般的に水田は米で、畑は農作物でした。生産高の30〜40パーセントという重いものでしたから、地主と小作農民の関係は、この高い小作料を巡って利害が一致しませんでした(注3)。
松岡農場では、1927年に前の年の凶作の影響を受け、小作料の引き下げの要求が起こりました(注4)。北海道庁は1927年より、これらの小作農民をできるだけ自作農民にする方針を出しました(注5)。この為小作農から自作農になる人もありました。土地を買う費用の問題はありますが、多くの小作農は自作農への希望を持ちました。
1939年の春から松岡農場解放の運動が高まり、当時の松岡農場の支配人小川義雄(注6)さんを通じて話し合われましたが、価格の点でまとまりませんでした。
和寒村長、村議会が一体となって農場の解放にあたりました。一方、北海道庁も、日中戦争下、農家経済の安定を進めていたので、1941年5月、水田272ヘク1タール、畑286ヘクタールを46万円で買い取り、118人の小作農民が白作農への第一歩
を踏み出しました。
注1 1910年頃、根井清作が将来の水田を予定し て原野を買収し根井農場となる。その後、神戸の伊藤英一に売却される。
注2 この型の地主は不在地主と呼ばれ、表に示されている地主の大部分はそうで、寄生地主制という日本特有の地主形態で作られた。
注3 「小作ハ賃貸契約3ケ年ヲ普通トシ料金ハ物納6分金納4分1割合トシテ普通反当1円乃至7円水田二在リテハ2年乃至6年ヲ納付ス」 -和寒村概説-
注4 北海道社会運動史 -渡辺惣蔵著-
注5 1927年民有未墾地開発資金貸付規定による自作農の創設。
注6 北大農学部卒、アメリカ、キャンサスの農科大学で酪農研究、1923年より松岡農場支配人。
資料 松岡農場自作農創設に関する陳情書 北海道長官宛
・・・陳者時局下農業生産の増進は愈々重且大にして最も喫緊なるに鑑み私共松岡農場小作者一同は同農地の自作農創設を以て開放相願度墾望実に切実なるもの有之候。
・・・自作農創設に関する邦家の大方針に準処して何卒之れが目的達成実現相叶候様我々の苦衷を御諒被下・・・・・・。
1940年3月 以下小作人署名 押印
(3) 戦争中の暮らし
1931年、満州事変が起こり、更に日中戦争を経て1941年、太平洋戦争へと広がって行きました。1931年から1941年までの10年間に6回もの凶作、不作に見舞われ、更に戦争か激しくなるにつれて、働き盛りの人も出征兵士として兵隊に行った為、農家の生活は大変苦しくなって行きました。
1941年、小学校は国民学校と名前が変りました。太平洋戦争が進むにつれて国民学校の子供達まで、手薄な農家への手伝いや(注1)いたどりの葉と
リ、蕨とりを行い、「欲しがりません勝つまでは」をスローガンに戦争に協力をさせられました(注2)。この頃から次第に日用生活品か不足となり、米を始め長靴・マッチ・
砂糖・石鹸等を自由に買う事が出来なくなりま した。
1942年に入ると、衣料品か点数切符制(注3)となり、一人につき1年間80点と決められました。男は国民服、女はモンペ姿となり防空頭巾や救急袋を常に持って歩かなけれ
ばなりませんでした。
1945年に入り戦争が激しくなると、生活も一段と苦しくなって来ました。主食等も代用パン、或いはじゃが芋・かぼちゃに米
粒がつく程度となり、ついには澱粉かすが配給されるようになりました。1945年7月14日、アメリカの爆撃機により道内の主な都市に爆弾が落とされました。翌15日には旭川が
爆撃され、和寒の上空にもアメリカの爆撃機が姿をあらわしました。空襲に備えて、いたるところに防空壕が掘られ、夜間の灯火管制を始め、学校・職場・家庭で避難訓練が行われました。
注1 商店の成年男子、女子の独身者は挺身隊員として工場・鉱山に徴用された。
注2 資源不足から弁当箱(金属製)の提出、ペット用の犬猫の毛皮も使用された。
注3 スカート10点。ワイシャツ12点。背広50点。手拭3点等。
注4 窓に暗幕や紙で外部に電気の明かりが漏れないようにし、更に電燈の笠を風呂敷で覆った。
5 これからの和寒 (1) 新しい出発
1945年の敗戦、そして占領下の中で、これからの日本の進むべき道とし
て、いろいろな制度を新しく作ったり、今までの間違った考え方を改めたりするように努力してきました。
新しく制定された日本国憲法には、戦争を永久に放棄する事、基本的人権を尊重する事、主権が国民にある事等が、はっきりとううたわれています。
国民は、新しい日本をつくる第一歩を踏み出したのです。
教育制度についても、「教育基本法」を制定して、正しく教育が行われるよ
うにし、また、小学校6年、中学校3年間の義務教育の制度(63制)を、つくったりして、いろいろと改革が行われました。
農地については、今まであった地主と小作人の関係をなくし、耕作農民に土地を与える「農地改革」を行い、この事によって、農業の生産力や、農業に取組む姿勢が、ぐんぐんと高まって来ました。
また、働く人達の労働時間を決めたり、男女の別の無い賃金制度を決めたりした「労働基準法」を制定し、民主国家としての、新しい取組みがなされ ました。
こうして、民主国家に相応しい、いろいろな制度や形を整えながら、敗戦後7年の占領時代から新しい日本の独立へと進んで来ました。