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塩狩周辺地図

JR塩狩駅周辺散策 (2014年01月05日)

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峠そば (和寒町)

塩狩ヒュッテから一番近いお食事処。地元和寒産そば粉を使った二八そば。
喉越し良いつるっとした食感です。塩狩きのこや和寒町の特産品なども販売しています。

和寒田舎酒家 冬音 (和寒町)

和寒町民の集うところ、冬音(とうね)。ミシュランガイド北海道2012 特別版にも掲載された名店。人気メニューはやっぱり冬音コロッケ。ほくほくの食感がたまりません。和寒の特産品越冬キャベツを使った「越冬キャベツプリン」はぜひお薦めしたい一品です。

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南丘森林公園 (和寒町)

塩狩ヒュッテから8kmのところにある、お気に入りの公園。大きな貯水池もあり、周遊コースもあります。ハイキング、サイクリング、カヌー、キャンプが楽しめます。とってもすてきな公園なのでぜひ行ってみてください。冬期は閉鎖。

三笠山自然公園こどもの国 (和寒町)

なかなか穴場の遊園地。ゴーカート、ハイスクリュータワー、豆汽車、スカイダンボ、フワフワくまさん、バッテリーカーなどの遊具があり、子どもから大人まで一日中楽しめます。料金も良心的。冬期は閉園。

和寒東山スキー場 (和寒町)

パウダースノーのスキー場で、初級者から上級者まで楽しめるコースになっています。全長2,000mの林間コースは樹木の中を滑るロマンチックコース! ペアリフト、夜間照明、ロッジも完備してあり、家族でお気軽に楽しめます。

比布スキー場 (比布町)

北領山の斜面に展開する町営のスキー場。広大なゲレンデと変化に富んだコース、しかも低料金リーズナブル!大雪山連峰をバックに、上川盆地を一望できる展望も素晴らしく、雪質も最高でパウダースノーを堪能できます。

ビバアルパカ牧場 (剣淵町)

年中無休。もともとスキー場だったところにあるアルパカ牧場。アルパカに触れます。エサもあげれます。
年中アルパカの毛を使った製品を販売しています。

営業時間 9:00~17:00、冬は10:00~16:00
入 場 料 高校生以上 550円、小中学生250円、乳幼児0円。
1年間有効パスポート1,000円(11月1日~翌年10月31日)

道の駅 絵本の里 けんぶち (剣淵町)

個人的にはここのパンが好き。農産物直売所もあるのでお土産を買うついでに覗いてみると楽しい。
「絵本の里」である剣淵なので、この道の駅には絵本もたくさん置いてあり、休憩しながら絵本を読める。ドッグランもあるので、わんちゃん連れの方もぜひ。

旭山動物園 (旭川市)

もうみなさん御存じ、入場者日本一の動物園。自然の中で生活している環境にできるだけ近い形で動物を放し飼いにし、それを観察できるようにしている「行動展示」という展示方法で注目を集めている。塩狩ヒュッテから30km。

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和寒町保養センター (和寒町) 約8㎞ 車で10分

塩狩ヒュッテから一番近い、町立の公衆浴場。リーズナブルな料金で入浴できます。毎月1回のかわり湯が人気。

遊湯ぴっぷ (比布町)  約9㎞ 車で10分 

光明石温泉。湯ざわりが柔らかく、鉱石の発する赤外線により体の芯から温め、湯冷めしくにくくなのが特徴。レストランも併設されています。

剣淵温泉 レイクサイド桜岡 (剣淵町) 約20㎞ 車で30分 

単純温泉(弱アルカリ性低張性低温泉)。桜岡湖を一望できる豊かな自然に包まれたロケーションです。

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ガソリンスタンド

和寒町市街地(塩狩の北 7~8km)の国道40号線ぞいに3店舗。南から順に、ガソリンスタンドは、ENEOS(豊和産業)、ENEOS(信菱興業)、ホクレン。

コンビニエンスストア

和寒町市街地(塩狩の北 7~8km)の国道40号線ぞいに3店舗。南から順に、ローソン、セイコーマート、セブンイレブン。

スーパーマーケット

和寒町市街地(塩狩の北 7~8km)の国道40号線ぞいにホクレンショップがあります。

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塩狩峠記念館 (和寒町)

作家三浦綾子さん旧宅を復元し、小説「氷点」執筆の部屋や小説・映画「塩狩峠」に関する資料などを展示しています。復元には、三浦夫妻から生活用品等の寄贈をいただき昭和30年代に夫妻が執筆活動をなさっていた生活空間を再現し、訪れるかたがたに三浦文学誕生当時の夫妻の有り様や人柄にふれていただき、三浦文学をより一層理解していただくとともに、後世に三浦文学の礎を伝えようとするものです。

開館期間4月1日~11月30日
休館日毎週月曜日(月曜祝日の場合は翌日)
開館時間午前10時~午後4時30分

塩狩ヒュッテでは塩狩峠記念館ナイトツアーを行っています。冬期休館中もご入館いただけます。

わっさむ町立図書館 (和寒町)

ひろびろとした館内でゆっくりと読書ができます。AVコーナーにはたくさんのDVDが揃っています。幼児ルームには紙芝居も充実。週末にはおはなし会などのイベントもやってます。

開館時間 午前10時~午後6時
休館日 毎週月曜日
絵本の館 (剣淵町)

絵本が中心の図書館。33,000冊もの絵本があります。グルーッと一周できる『たまご型』の館内で、木の玉砂利10万個の入った木の砂場がある「たまごのへや」もあります。その他、布の絵本や木のパズルなど、たのしいものがたくさん。

営業時間 10:00~17:00
定 休 日 水曜、年末年始

長野政雄さん受難の地(和寒町 21線踏切付近)

5月28日は小説塩狩峠のラストシーンの日、塩狩ヒュッテでは、ラストシーンで登場する「受難の地 白木の柱」が21線踏切付近と推測しており、これを再現しようと試みています。位置の推定に関しては次の資料をご覧下さい。

受難の地 21線踏切付近 (206kb, pdf)

長野政雄之碑(旭川市近文墓地)

長野政雄之碑(長野さんのお墓) (918kb, pdf)

北海道坂本龍馬記念館(函館市)、ピアソン記念館(北見市)

旭川で共に活躍した3人 :

旭川在住期間 縁の記念館
坂本直寛 1853~1911年 の 58年間 1902~1909年 北海道坂本龍馬記念館(函館市)
ジョージペックピアソン 1861~1939年 の 78年間 1901~1914年 ピアソン記念館(北見市)
長野政雄 1880~1909年 の 28年間 1901~1909年 塩狩峠記念館(和寒町)

* 3人の活躍は、中島啓幸氏の著書「塩狩峠、愛と死の記録」で知る事ができます。中島さんは1969年生まれ、長野政雄研究の第一人者です。

小説 塩狩峠 : 1909年2月28日(日)、塩狩峠で旅客列車が暴走。永野信夫は線路に飛び下り、自らが下敷きとなって列車を食い止めた。キリスト教作家である三浦綾子さんが、乗客の命を救うために殉職した鉄道院職員 長野政雄の実話をもとに書いた小説。ミュージシャンの椎名林檎さんは中学生の頃、国語のテストに引用されたこの作品を読んで泣いてしまったと言われています。塩狩駅近くには顕彰碑や記念館が建てられています。小説塩狩峠は、映画、マンガ、お芝居にもなっています。

映画 塩狩峠 : 1975年製作、103分。

マンガ 塩狩峠 : のだますみさんによってかかれ、月刊誌百万人の福音にて連載中。2014年12月号まで連載、2015年に単行本化予定。

一人芝居 塩狩峠 : 俳優水澤心吾氏が演じる。

1964年6月14日頃は、長野政雄さんの実話と三浦綾子さんが出合った日。1909年の事故から55年経っていました。これについても、中島氏の著書「塩狩峠、愛と死の記録」で詳しく書かれています。


天塩川(てしおがわ)付近の風景やそこにどんな人がいるか、さっとわかる4分ほどのプロモーションビデオ。出演者のほとんどは振りについて素人ですが、普段はそれぞれがキラリと光る活躍をしている人たちです。歌詞では「because I'm happy」(ビコズアムハピー)が、終始繰り返されていますが、その前の部分にいろんなうまく行かない事が歌われています。それら全てに対して、でも気にしないさ、「なぜなら、俺は幸せだからさ」と繰り返される歌です。どうぞ、ご覧下さい。/合田俊幸
https://www.youtube.com/watch?v=s9oN1m1pZCM


地域の歴史

「1986年4月1日発行 郷土読本 わっさむ」より引用

1 大昔の和寒 (1) 最初に住み着いた人々

私達の町に最初に住みついた人々はどこから来たのか、どんな人々であるかはよくわかりません。しかし、日常生活の為に使った土器や土器の破片が発見されています。これらの遺物を通して生活していた時代を推測する事ができます。

土器については残念ながら一つの破片しか発見されず、土器を作った人がその場所で使ったものか、誰かが落としたものかよくわかりません。

この土器は、北筒式土器(注1)と呼ばれるもので、作られた時代は、縄文中期頃と言われています。

石器については、西和、福原を始め、中和、東丘一帯で採集されています。

一番完全な形で保存されているのは、三笠の下井辰雄さんの畑から採集されたもの(注2)です。これらの土器の採集された場所は、ペオッペ流域、和寒川の上流サクルクシュ・ケネフチ(注3)、マタルクシュ・ケネフチ(注4)の流域や、小さな沢の湧水の周辺であり、何れも水の近くという共通点があります。

石器を使った人々は、非常に長い間厳しい自然と戦いながら親から子供へと生活を伝えていったのです。

注1 道東、道北に分布し、今から約3000年~5000年前のもので、旭川周辺でも発掘されている。

注2 縄文時代

注3 剣淵川の上流で、アイヌ語、夏の・道・通る・剣淵川 (北海道の川の名、山田秀三著)

注4 剣淵川の上流で、アイヌ語、冬の・道・通る・剣淵川 (北海道の川の名、山田秀三著)


(2) 交通の要路としての和寒町

和寒川は、天塩川から石狩川に出る通り道としてアイヌの人々が利用していました。天塩川から支流のケネフチ川(剣淵川)をのぼり、中和18線で2つに分かれます。

1つはマタルクシュ・ケネフチで、この川を通り比布を経て石狩川に通じ、他方はサクルクシュ・ケネフチを通る道で鷹栖、近文を経て石狩川に出ます。この2つの道が利用され、アイヌ語で、夏の道、冬の道と名付けられたものと思います。他の川もアイヌの人々が魚を求め、熊を追いながら生活をしたものと思われます。和寒町に流れている川の名前も、その頃の事をしのぶペオッペ川(注1)、タツネウシ・ペオッペ川(注2)、シブンナイ川(注3)、ワッカウエンナイ川(注4)等があります。

徳川幕府は寛政(1789~1800年)以後になると北の守りの為に、エゾ地探検を盛んに行いました。近藤重蔵や松前藩の役人達も、天塩川から石狩川に出る為に和寒の地を通ったものと思われます。

資料

幕府の上川探検は記録に残されているが、和寒地域の事に関しては明らかなものはない。塩狩の須貝氏宅前庭にある「近藤重蔵ゆかりの地」なるものは、昭和の初め(1926年~)に同氏宅横のマタルクシュ・ケネフチの土木工事の時に一振の脇差が発掘された。当時、工事監督の佐藤千州氏(1986年当時旭川市在住)の話によると、脇差そのものは錆ついていたが、三葉葵の紋(徳川将軍家の紋)の彫った立派な
鍔がついていた。近藤重蔵が天塩川、和寒川と、のぼって来た時、同地で供の者が病没、その死をあわれみ脇差もろとも埋葬したとの事で記念碑を建立している。しかし、病没者の骨も発見されず、鍔も手もとにはない現在、この事に疑問はあるが、幕吏(ばくり)は当地を通った事だろう。

注1 上流がいつもじめじめしている川の意

注2 かばの木が沢山はえている沢の意

注3 うぐいが沢山いる川の意

注4 汚れていて魚のいない川の意


2 開拓の初めの頃 (1) 鉄道が敷かれる

1895年頃、既に和寒町の現市街地にがん皮(び)小屋を建て生活をしていた人がおりましたが、名前は、はっきりしません。

明治30年代(1897年~)に入ると、北海道の原野は、非常な速さで開拓が進められ、1897年5月、天塩線(現宗谷本線)の工事が、旭川から始められました。

和寒の鉄道工事の12線踏み切りのそばに、菊池伊七さんは、がん皮小屋を建て、鉄道工事の人達の食べ物や飲み物を売り、名寄、士別方面の旅行者の馬宿(ばじゅく)も開業していたという記録が残っています。

1899年の春には、12戸の家が市街地にできました。家の造りはみんながん皮小屋でした。駅前と国道に平行して、大通りがわずかに刈り分けられただけで、一面が野地(やち)で、じめじめと水が溜まり倒れた木を渡らなければなりませんでした。また、駅のそばは、池になっていました。

この年7月1日、剣淵屯田兵と家族600名(第2回は7月12日600名)が朝8時頃旭川を出発し、蘭留からは工事中の線路を徐行して昼頃、和寒に着きました。屯田兵の人々は、荷物を背負って、剣淵の屯田兵宿舎まで12kmの道程を歩きました。

旭川から和寒まで鉄道が開通したのは1899年11月15日です。ここに和寒の本格的な開拓の第一歩がしるされました。

注1
入植当時は、まかばの木が多く、その皮をむいて屋根をふいたり、壁板の代わりに用いた。また、細く丸めて夜間の灯(ひ)に使った。

注2
1874年北海道の防備、開拓、士族授産等を兼ねて、屯田兵が制定され、1899年士別(しべつ)・剣淵屯田兵が入植、士別、剣淵屯田をもってこの制度は打ち切りとなる。


(2) 駅前と大通り

1899年、駅前道路(幌加内道路)が5号まで笹が刈り分けられ、大通りも開かれました。道路はじめじめしており、草も伸び、歩き難い通りでした。当時、駅員は6~7名で保線は10名程でした。汽車は1日1往復で(午前下り、午後上り、)1日12~13人。冬はほとんど乗り降りする人がおりませんでした。

木材は豊富で、一面が木の海でした。しかも草が2メートル以上ものび、すぐ前の人が見えないくらいでした。アブが多く昼でも蚊帳を吊らないと食事も出来ず、手や足に真っ黒になる程付きました。

1901年に土地が民有地に移り、入植者の往来が盛んになりました。これらの人々をあてにした旅館、風呂屋(注1)、豆腐屋ができ、矢久保佐助さんが大通りの角に荒物雑貨商と小樽木材株式会社の仕事を始め、ようやく市街地らしくなりました。

1902年以後は、原野(現在の西和方面を除いて和寒原野と呼んでおりました。)への入植が急速に進み、1904年には三井物産造材部和寒出張所ができる等市街地は一段と活気付いて来ました。

年次 市街地(戸) 原野(戸) 計(戸) 備考
1899 12 1 13
1900 15 1 16 鉄道関係戸数(含7戸)
1901 25 0 25 同上
1902 25 50 75
1905 70 250 320
1907 100 400 500

和寒戸数増加表 和寒村沿革概誌より

入植者の大部分は、和寒に第二の故郷を求めてやって来た人々でした。生活の目安が付くと次に心配なのは、子供達の教育です。1904年6月、屯田兵時代の空家を借りて勉強が始められ、これが和寒小学校の始まり(注2)です。

通学する子供達は、原野や市街地から通い、原野から通う子供達は大変苦労しました。

注1
宿は、掘立て小屋のがん皮小屋で、割板を敷きその上に俵ごもを敷いていた。付近の川で取った魚に、卵の味噌汁で料金は50銭(白米60kg5円)。

風呂屋は1901年から始められ、1.5mに2m程の浴槽。底にトタン板をうったもので、代金は2銭。-我が郷和寒より-

注2 剣淵尋常小学校分教場として、1学級33名で出発、1905年11月和寒簡易教育所として独立する。


(3) 和寒原野とペオッペ原野

1902年、星長治さんら相馬団体は中和地区に、架田七太郎さんら越中団体は菊野地区に入植し、続いて山形、徳島、佐賀県の人々の団体移住も行われました。楡、白楊(はこやなぎ)、雑草が生い茂り、熊、狸、狐の遊ぶ原野にも開拓の鍬が下ろされるようになり、1908年にはペオッペ原野(注2参照)と合わせて500戸の開拓農家が入植しました。大正(1912年~)の初め頃までに、長峯農場(三和)、河西農場(川西)、一柳農場(中和)、角館農場(菊野)、河野農場(東和)、三井農場(大成)等の農場(注1)ができ、入植者の中には自作農家もありましたが、多くは、農場の小作農家として入植しました。

1907年の春、中和20線に入植した涌井藤七さんが自分の土地にある、「湧き水」を利用して、33平方メートルの水田を作り、約1.5kgの種もみをまき7.5kg程の米を取りました。1902年に谷口枡五郎(朝日)が稲作をした記録が残されております。米作りの成功は農家の人々を元気付け、1912年には約30ヘクタールの水田が原野にできました。

第1次世界大戦(1914~1918年)の影響を受け1916年から1918年にかけて、日本製麻和寒工場、帝国製麻和寒工場が建てられ、それぞれ約40名の労働者を雇い入れ、村の経済も潤い、原野の開拓も進みました。

1902年屯田兵の請負で西和14線までの道路が作られ、ペオッペ原野(注2)への入植も容易となり、1904年に高森初次郎さんら越中団体が入植し、ペオッペ原野の開拓が始まりました。1908年、14線に駅逓
(注 交通通信参照)が作られペオッペ原野は、幌加内に通じる重要な
通路となりました。しかし道路といっても木や笹、雑草が生い茂り、まるで青い天井の隧道の中のようなものでした。

1909年1月ペオッペ特別教授所(西和小学校)が開かれ1学級19名の学校が誕生し、入植者が子供達の為に安心して働く事ができるようになりました。翌年にはペオッペ川流域の沢から砂白金が発見されるなど原野全体が活気に満ちて来ました。

注1 1886年北海道庁が設置され、北海道土地払い下げ規則が公布された。同法に基き1887年から1888年にかけて上川郡の植民地選定調査が行われた。1897年には新たに国有未開地処分法が制定され、1901年、和寒、ペオッペ両原野の区画測定(1戸分の区画割を15000坪=5ヘクタール)が行われ団体移住、大農場の小作移住が奨励され特に多くの農場小作が実現した。

注2 現在の西和地区全体を指し、1934年の地名改正までペオッペと呼ばれた。現福原は覚礼(かくれい)原野と呼ばれた。ペオッペ原野15線を通り、幌加内へ急いだ旅人達も、左の方は樹木が生い茂り原野の存在がわからなかったのに由来するらしい。1934年当時、和寒で1番農業生産の低い覚礼地域を将来、一番豊かな地域にと、福原と改名した。

資料 A 1902年の7月、11人の家族は和寒村の13線西20番地に1戸分5町歩の土地を払い下げられ和寒に入った。駅前の菊野伊七氏の店に休んで13線の幌加内道路を進んだ。荷物といってもほんの僅かを各々背負って和寒川から向こうは野地で水溜りとなっていた中を、更に道路から170間程山の中に入った。がん皮を切って2間に3間の拝み小屋を立て笹を刈って敷き詰めその上にむしろを敷いた。

4尺に6尺の大きな炉を切って、大きな木を割ってどんどん炊いたもんだ。当時の食べ物は麦4升に米5合くらい、金っていうものはまるきり持っていない。貧乏してきたのでからどんな苦労しても何とも思わない。辺乙部川に出て盛んにやまべをとった。それを焼いては市街の菊池氏に買ってもらって米を買ったが、米は1升11銭で、2~3升くらいより買えなかった。灯火と言ってもカンテラを灯したり、またがん皮の皮をなって火を点(てん)じたりしていた。

B 1906年8月 午前11時頃幌加内道路を大きな熊が横切って市街裏の笹原の原野に入った。今の15線の和寒川の川べりである。鉄砲はわずか3丁ばかりで中には火縄銃を持ち出す人もあった。・・・・・・・・・・・・28貫(28×3.75=105kg)という牡(おす)熊で当時市街の人家は50戸程であったが、皆は肉を食べた。-我が郷和寒より-


3 開けゆく和寒 (2) 菜種、麦、じゃが芋の荒山(あらやま)生活

笹と木の生い茂った土地に入植した人々の生活は並大抵のものではありません。まず、着手小屋(注1)を建て生活の目安を立ててから家族全員で入植しました。

農機具は窓鍬、島田鍬、笹刈りかま等でした。細い木は切り倒し、太い木は枝のみ切り払い、笹は刈って焼き払いその後に菜種をばらまきにしました。菜種は発芽が良く笹の成長を抑える為、笹の根が腐り、翌年から、鍬で耕すのが楽になります。その上、菜種は大変良い値段で売る事ができました。菜種の後にはいなきび、青えん豆(どう)等が栽培され、主食は麦、いなきび等で、お盆とお正月にのみ白米のご飯を食べました。

明治末(~1912年)から大正(1912年~)にかけ、じゃがいもが栽培され開拓期の豊かな土地は、大変良い収穫をあげる事ができ、当時の大事な食糧となりました。第一次世界大戦の影響を受けて、西和、東和、三和等では、水車を利用して澱粉工場が建てられ澱粉成金と呼ばれる人々も現れました(注2)。この他お金になる作物として除虫菊、米作りが広まるまでハッカが栽培されました。西和、東和、大成等の山林では木炭が焼かれ農家の冬における良い収入となりました。

白米 60kg 5~5円20銭
1.8L 60銭
宿料 1泊食事付 50銭
木炭(上) 37.5kg 20~22銭
なたね 180L 6円
黒砂糖 600g 12銭
石油 1.8L 30銭
市街地 1戸分(5ha) 70~100円

1904~1905年物価の例-わが郷和寒より

注1 入植すべき土地に仮小屋を建て、大人が通いで開拓し、生活のめどを立ててから全員で入植する。

注2
第1次世界大戦(1914-1918)は日本の経済に好況をもたらし、北海道農業の黄金時代であった。中長(ちゅうなが)、金時、手亡(てぼう)、青えん豆、澱粉、亜麻等は高値を続け、色豆は1俵10円、5円。澱粉は1袋19円、青えん豆1俵20円、畑作反収50円の文字通り黄金時代。

注3 この外、東和、西和では豊富な林産資源を利用して下駄棒(しな、しころの木を利用した下駄の半製品)を作り、本州方面に出荷した。


(2) 砂白金(さはっきん)

ペオッペ川流域の沢から砂金が最初に発見されたのは、いつであるかははっきりしていません。1910年の夏、5線の沢で砂白金が採取され、翌年春には約100人の人夫を使って大規模な採取が行なわれました。よく取れる所では3.3平方mから26gくらいとる事ができました。
注1注2

大正(1912~1926)の中頃が最も盛んで1日、3.75gは採取する事ができ、農家の人々の中には農閑期に砂白金取りを行なう人もいました。

太平洋戦争中の1943年資源不足から砂白金の採取のために帝国砂白%