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Wassamu museum 構想

2013年6月7日現在、私(合田俊幸)の構想は次の通りです。 人々が目を輝かせ夢を膨らませ「Hokkaidoを知るならWassamu museum」と、 世界から注目される施設をつくりたい。 和寒町郷土資料館とSLを、2015年(平成27年、分村100年)頃、 塩狩の某地(21703.80m2≒2.19町)に移設。 「わっさむ郷愁創造館」として30年間運営。

1) 郷土料理、郷土芸能にも力を入れる。
2) "凍裂のひびき"と展示物をもとにショートムービーを作る。
3) インターネット展示に力を入れる。
4) 年配の方々に特別学芸員として働いて頂く。
5) 塩狩温泉を歴史の一つとして、夏の足湯等も実施する。
6) 公共、農業、商業、工業、信仰、スポーツそれぞれ取り上げる。
7) 長野政雄展示室を設ける。
8) 内容を追加できるような体制にする。

(構想は以上)


和寒町郷土資料館整備検討委員会 2013年6月4日 配付資料より抜粋
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平成25年度 第1回和寒町郷土資料館整備検討委員会
                                 日時 平成25年6月4日(火) 午後6時30分〜
                                 場所 公民館町民室
開会
1. 町長あいさつ
2. 整備検討委員紹介
3. 議件
   1)委員長・副委員長の互選について
     委員長あいさつ
   2)郷土資料館整備検討委員会の目的について
   3)郷土資料館の現状について
   4)その他
4. 郷土資料館視察
5. 次回開催予定 7月1日(月) 13:30〜 第2郷土資料館(西和)視察
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1)委員長・副委員長の互選について
和寒町郷土資料館整備検討委員会委員名簿
10名
任期:平成25年4月1目〜平成27年3月31日
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2)郷土資料館整備検討委員会の目的について
  昭和47年、郷土の創りあげてきた文化遺産を次代に受け継ぎ、さらに新しい
文化を創造していくための中心的役割を担う施設として、独立した資料館が整
備され、昭和56年には、単に古い郷土への郷愁に終えることなく真に郷土を創
造するための場としての郷土資料館を考える必要性から、「和寒町郷土資料館
整備運営委員会」が設置され、昭和58年に現在の郷土資料館に改修整備された
ところであります。
  改修以来、現資料館は約30年を迎えるところであり、改修当時は80点の展示
規模で、郷土の歴史を振り返り先人の歩みを想像し、今日の繁栄に感謝し郷土
愛を育む施設として今日に至っているところであります。
  平成27年度に和寒町が分村100年を迎えるに当たり、これまで先人が創り上
げてきた郷土の歴史を未来につなぐとともに、分材2世紀を町民がしっかりと
歴史の足跡を刻み、郷土愛を子々孫々までつなぐ、総合的な郷土資料館を構築
することを目的に設置するものであります。
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3)郷土資料館の現状について
  1.郷土資料館の現状
  和寒町郷土資料館は、昭和47年12月に開設され、昭和56年に展示室内の大規
模改修がなされ、コンパクトの中にも凝縮した資料を展示し、今日まで大きく
変更することなく運営してきたが、当時は80点規模の資料展示スペースで改修
されており、改修以来既に30年を迎えた今、保存資料は445種類、900点余りと
増えており、加えて小学校、中学校が1校となり、高等学校も閉校されたこと
により、学校の歴史として遺すべき資料も数多く、教育環境の移り変りも郷土
の歴史として保存展示する必要があることから、現状の施設ではスペースを確
保することができない状況にある。
  2.郷土資料整備の意義と目的
  過疎化、少子高齢化が進み、人口の流出は留まることなく、都市部集中化現
象は依然と続いているも、和寒町が和寒町としてこれからも生き続けていくと
き、これまで歴史を刻んできた先人たちの郷土愛をこれから先、子々孫々まで
、形あるものとして遺し、人間性の回復、連帯感の高揚を図るためにも郷土の
見直しが必要である。
  3.郷土資料展示のテーマ
  国の積極的な開拓施策に呼応して、各地から移住した開拓者たちが、和寒の
それぞれの地域でいかに対応しつつ新しい生活や文化を創造してきたか。そし
てまた、平成27年に分村100年を迎えるに当たり、和寒町が発展してきた歴史
を振り返りながら、町民の郷土愛を育むとともに、未来に向って町民とともに
郷土和寒を創造していくこと中心テーマとする。
  4.郷土資料館の現状
  (1)和寒町郷土資料館
  現在の郷土資料館は、築40年を経過し老朽化しており、展示室内は昭和56年
から58年にかけて改修し現在に至っているが、改修当時は80点規模の展示施設
であり、年数とともに資料も増え手狭な中に雑然と展示されている状況から、
分村100年の歴史をテーマ別に整理展示することや、学校閉校に伴う教育関係
資料や、これからの歴史を積み重ねていくためのスペースを確保することは、
難しいと考える。
  (2)第2郷土資料館
  西和小学校が平成15年3月に閉校となったのを機に、校舎2階部分の教室を利
用し第2郷土資料館として、比較的大きな農産業の資料の展示や閉校した小学
校で建物が現存してない学校の資料等を展示しているが、1階部分が手作りギ
ター制作工房として利用されていることから、粉塵が2階まで飛散するも毎日
清掃する余裕がなく、展示施設としての機能を果たしているとは言えない状況
にある。
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○和寒町郷土資料館整備検討委員会設置要綱
 (設置)
第1条 和寒町郷土資料館(以下「資料館」という。)の在り方について検討する
 ため和寒町郷土資料餡整備検討委員会(以下「委員会」という。)を設置する
 。
 (所掌事務)
第2条 委員会は、次に掲げる事項について協議、検討するものとする。
 (1)資料館の今後の在り方について
 (2)資料館の整備について
 (3)その他、委員会が必要と認める事項
 (組織)
第3条 委員会は別表に掲げる者10名以内としく教育長が委嘱する。
 (委員の任期)
第4条 委員の任期は2年とする。ただし、補欠委員の任期は前任者の残任期間
 とする。
2 職務によって委嘱された委員の任期は、その職務の残任期間とする。
3 委員は再任されることができる。
 (委員長及び副委員長)
第5条 委員会に委員長及び副委員長1名を置く。
2 委員長及び副委員長は、委員の互選により定める。
3 委員長は、委員会を代表し会務を総理する。
4 副委員長は、委員長を補佐し委員長に事故あるときはその職務を代理する。
 (会議)
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第6条 委員会の会議は、必要に応じて委員長が招集し、委員長がその議長とな
 る。ただし、第1回の会議は教育長がこれを招集する。
2 委員会の会議は、和寒町情報公開条例(平成10年和寒町条例第17号)第5条の
 規定により公開する。ただし、同条例第9条の規定により、会議の全部又は一
 都を公開しないことができる。
 (意見の聴取等)
第7条 委員会は検討のため必要があると認めるときは、関係者に対し、会議に
 出席を求めてその意見若しくは説明を聞き、又は資料の提出を求めることが
 できる。
 (庶務)
第8条 委員会の庶務は、教育委員会事務局において処理する。
 (その他)
第9条 教育委員会が委嘱する委員に対しては、特別職の職員で非常勤の者の報
 酬及び費用弁償に関する条例(昭和42年条例第23号)に準拠し、予算の定める
 ところにより報償費を支払うものとする。
 (委任)
第10条 この要綱に定めるもののほか、委員会の運営に関し必要な事項は、教
 育長が別に定める。
附則
この要綱は、平成25年4月1日から施行する。
別表(第3条に規定する組織及び人数)
文化財保護委員 1名
公民館運営審議会委員兼社会教育委員(文化振興部会) 2名
識見者 2名
公募 5名
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ペオッペ駅逓所跡 ペオッペ駅逓所跡における掲示内容

和寒-幌加内道路の開通に伴い、1909年西和14線のこの地に官設のペオッペ駅逓所が開設され、当時は和田常太郎が経営に当り、後に佐藤龍吉に引き継がれた。

当時、幌加内までは鉄道が通じていなかったので、幌加内の人々が鉄道を利用するには、約8里(32km)の道を和寒駅まで出なければならなかった。

駅逓所では常に数頭の馬を用意しており、旅客、郵便物、生産物、荷物などを輸送すると共に宿泊所を兼ねており、和寒-幌加内間の交通輸送の中継所として重要な役割を果たしていた。

1926年、国鉄深名線が鷹泊まで開通したので1928年廃止された。


国設塩狩スキー場 跡 「和寒町史 1975年発行 和寒町 著」より引用

1962年に塩狩駅東向かいの国有林を整備し、1963年2月オープンした。1000mの中級コース、650mの大衆コース、3000mに及ぶツアーコースがあり、積雪がよく4月まで利用でき、美しい樹氷も見られ、中腹には99m2のヒュッテがある。

* おそらく営業は数年程。2012年現在、一帯は林になっている。


年表 わっさむの歩み (和寒町のウェブサイト)


地理概要 和寒町の東側には、鉄道・国道40号線・高速道が縦断しており、市街地がある平野部のほぼ東端でもある。この国道40号線と並走する道が西に連続する。約500m間隔で2号から8号まではあり、8号は平野部のほぼ西端。

一方、前述の○号と直行する(東西に走る)道は、5線から23線まではある。これもほぼ500m間隔で北側の5線から連続している。塩狩バス停の北隣のバス停が"27線"なので、27まであるのかもしれない。1線から4線は剣淵町にある。

和寒町の各地域は北から順に次の通り。東和、大成、北原、日ノ出、松岡、菊野、東丘、西和、三和、東町、北町、西町、南町、三笠、川西、朝日、中和、福原、南丘、塩狩。


「1986年4月1日発行 郷土読本 わっさむ」より引用

1 大昔の和寒 (1) 最初に住み着いた人々

私達の町に最初に住みついた人々はどこから来たのか、どんな人々であるかはよくわかりません。しかし、日常生活の為に使った土器や土器の破片が発見されています。これらの遺物を通して生活していた時代を推測する事ができます。

土器については残念ながら一つの破片しか発見されず、土器を作った人がその場所で使ったものか、誰かが落としたものかよくわかりません。

この土器は、北筒式土器(注1)と呼ばれるもので、作られた時代は、縄文中期頃と言われています。

石器については、西和、福原を始め、中和、東丘一帯で採集されています。

一番完全な形で保存されているのは、三笠の下井辰雄さんの畑から採集されたもの(注2)です。これらの土器の採集された場所は、ペオッペ流域、和寒川の上流サクルクシュ・ケネフチ(注3)、マタルクシュ・ケネフチ(注4)の流域や、小さな沢の湧水の周辺であり、何れも水の近くという共通点があります。

石器を使った人々は、非常に長い間厳しい自然と戦いながら親から子供へと生活を伝えていったのです。

注1 道東、道北に分布し、今から約3000年〜5000年前のもので、旭川周辺でも発掘されている。

注2 縄文時代

注3 剣淵川の上流で、アイヌ語、夏の・道・通る・剣淵川 (北海道の川の名、山田秀三著)

注4 剣淵川の上流で、アイヌ語、冬の・道・通る・剣淵川 (北海道の川の名、山田秀三著)


(2) 交通の要路としての和寒町

和寒川は、天塩川から石狩川に出る通り道としてアイヌの人々が利用していました。天塩川から支流のケネフチ川(剣淵川)をのぼり、中和18線で2つに分かれます。

1つはマタルクシュ・ケネフチで、この川を通り比布を経て石狩川に通じ、他方はサクルクシュ・ケネフチを通る道で鷹栖、近文を経て石狩川に出ます。この2つの道が利用され、アイヌ語で、夏の道、冬の道と名付けられたものと思います。他の川もアイヌの人々が魚を求め、熊を追いながら生活をしたものと思われます。和寒町に流れている川の名前も、その頃の事をしのぶペオッペ川(注1)、タツネウシ・ペオッペ川(注2)、シブンナイ川(注3)、ワッカウエンナイ川(注4)等があります。

徳川幕府は寛政(1789〜1800年)以後になると北の守りの為に、エゾ地探検を盛んに行いました。近藤重蔵や松前藩の役人達も、天塩川から石狩川に出る為に和寒の地を通ったものと思われます。

資料 幕府の上川探検は記録に残されているが、和寒地域の事に関しては明らかなものはない。塩狩の須貝氏宅前庭にある「近藤重蔵ゆかりの地」なるものは、昭和の初め(1926年〜)に同氏宅横のマタルクシュ・ケネフチの土木工事の時に一振の脇差が発掘された。当時、工事監督の佐藤千州氏(1986年当時旭川市在住)の話によると、脇差そのものは錆ついていたが、三葉葵の紋(徳川将軍家の紋)の彫った立派な 鍔がついていた。近藤重蔵が天塩川、和寒川と、のぼって来た時、同地で供の者が病没、その死をあわれみ脇差もろとも埋葬したとの事で記念碑を建立している。しかし、病没者の骨も発見されず、鍔も手もとにはない現在、この事に疑問はあるが、幕吏(ばくり)は当地を通った事だろう。

注1 上流がいつもじめじめしている川の意

注2 かばの木が沢山はえている沢の意

注3 うぐいが沢山いる川の意

注4 汚れていて魚のいない川の意


2 開拓の初めの頃 (1) 鉄道が敷かれる

1895年頃、既に和寒町の現市街地にがん皮(び)小屋を建て生活をしていた人がおりましたが、名前は、はっきりしません。

明治30年代(1897年〜)に入ると、北海道の原野は、非常な速さで開拓が進められ、1897年5月、天塩線(現宗谷本線)の工事が、旭川から始められました。

和寒の鉄道工事の12線踏み切りのそばに、菊池伊七さんは、がん皮小屋を建て、鉄道工事の人達の食べ物や飲み物を売り、名寄、士別方面の旅行者の馬宿(ばじゅく)も開業していたという記録が残っています。

1899年の春には、12戸の家が市街地にできました。家の造りはみんながん皮小屋でした。駅前と国道に平行して、大通りがわずかに刈り分けられただけで、一面が野地(やち)で、じめじめと水が溜まり倒れた木を渡らなければなりませんでした。また、駅のそばは、池になっていました。

この年7月1日、剣淵屯田兵と家族600名(第2回は7月12日600名)が朝8時頃旭川を出発し、蘭留からは工事中の線路を徐行して昼頃、和寒に着きました。屯田兵の人々は、荷物を背負って、剣淵の屯田兵宿舎まで12kmの道程を歩きました。

旭川から和寒まで鉄道が開通したのは1899年11月15日です。ここに和寒の本格的な開拓の第一歩がしるされました。

注1 入植当時は、まかばの木が多く、その皮をむいて屋根をふいたり、壁板の代わりに用いた。また、細く丸めて夜間の灯(ひ)に使った。

注2 1874年北海道の防備、開拓、士族授産等を兼ねて、屯田兵が制定され、1899年士別(しべつ)・剣淵屯田兵が入植、士別、剣淵屯田をもってこの制度は打ち切りとなる。


(2) 駅前と大通り

1899年、駅前道路(幌加内道路)が5号まで笹が刈り分けられ、大通りも開かれました。道路はじめじめしており、草も伸び、歩き難い通りでした。当時、駅員は6〜7名で保線は10名程でした。汽車は1日1往復で(午前下り、午後上り、)1日12〜13人。冬はほとんど乗り降りする人がおりませんでした。

木材は豊富で、一面が木の海でした。しかも草が2メートル以上ものび、すぐ前の人が見えないくらいでした。アブが多く昼でも蚊帳を吊らないと食事も出来ず、手や足に真っ黒になる程付きました。

1901年に土地が民有地に移り、入植者の往来が盛んになりました。これらの人々をあてにした旅館、風呂屋(注1)、豆腐屋ができ、矢久保佐助さんが大通りの角に荒物雑貨商と小樽木材株式会社の仕事を始め、ようやく市街地らしくなりました。

1902年以後は、原野(現在の西和方面を除いて和寒原野と呼んでおりました。)への入植が急速に進み、1904年には三井物産造材部和寒出張所ができる等市街地は一段と活気付いて来ました。

年次 市街地(戸) 原野(戸) 計(戸) 備考
1899 12 1 13  
1900 15 1 16 鉄道関係戸数(含7戸)
1901 25 0 25 同上
1902 25 50 75  
1905 70 250 320  
1907 100 400 500  
和寒戸数増加表 和寒村沿革概誌より

入植者の大部分は、和寒に第二の故郷を求めてやって来た人々でした。生活の目安が付くと次に心配なのは、子供達の教育です。1904年6月、屯田兵時代の空家を借りて勉強が始められ、これが和寒小学校の始まり(注2)です。

通学する子供達は、原野や市街地から通い、原野から通う子供達は大変苦労しました。

注1 宿は、掘立て小屋のがん皮小屋で、割板を敷きその上に俵ごもを敷いていた。付近の川で取った魚に、卵の味噌汁で料金は50銭(白米60kg5円)。

風呂屋は1901年から始められ、1.5mに2m程の浴槽。底にトタン板をうったもので、代金は2銭。-我が郷和寒より-

注2 剣淵尋常小学校分教場として、1学級33名で出発、1905年11月和寒簡易教育所として独立する。


(3) 和寒原野とペオッペ原野

1902年、星長治さんら相馬団体は中和地区に、架田七太郎さんら越中団体は菊野地区に入植し、続いて山形、徳島、佐賀県の人々の団体移住も行われました。楡、白楊(はこやなぎ)、雑草が生い茂り、熊、狸、狐の遊ぶ原野にも開拓の鍬が下ろされるようになり、1908年にはペオッペ原野(注2参照)と合わせて500戸の開拓農家が入植しました。大正(1912年〜)の初め頃までに、長峯農場(三和)、河西農場(川西)、一柳農場(中和)、角館農場(菊野)、河野農場(東和)、三井農場(大成)等の農場(注1)ができ、入植者の中には自作農家もありましたが、多くは、農場の小作農家として入植しました。

1907年の春、中和20線に入植した涌井藤七さんが自分の土地にある、「湧き水」を利用して、33平方メートルの水田を作り、約1.5kgの種もみをまき7.5kg程の米を取りました。1902年に谷口枡五郎(朝日)が稲作をした記録が残されております。米作りの成功は農家の人々を元気付け、1912年には約30ヘクタールの水田が原野にできました。

第1次世界大戦(1914〜1918年)の影響を受け1916年から1918年にかけて、日本製麻和寒工場、帝国製麻和寒工場が建てられ、それぞれ約40名の労働者を雇い入れ、村の経済も潤い、原野の開拓も進みました。

1902年屯田兵の請負で西和14線までの道路が作られ、ペオッペ原野(注2)への入植も容易となり、1904年に高森初次郎さんら越中団体が入植し、ペオッペ原野の開拓が始まりました。1908年、14線に駅逓 (注 交通通信参照)が作られペオッペ原野は、幌加内に通じる重要な 通路となりました。しかし道路といっても木や笹、雑草が生い茂り、まるで青い天井の隧道の中のようなものでした。

1909年1月ペオッペ特別教授所(西和小学校)が開かれ1学級19名の学校が誕生し、入植者が子供達の為に安心して働く事ができるようになりました。翌年にはペオッペ川流域の沢から砂白金が発見されるなど原野全体が活気に満ちて来ました。

注1 1886年北海道庁が設置され、北海道土地払い下げ規則が公布された。同法に基き1887年から1888年にかけて上川郡の植民地選定調査が行われた。1897年には新たに国有未開地処分法が制定され、1901年、和寒、ペオッペ両原野の区画測定(1戸分の区画割を15000坪=5ヘクタール)が行われ団体移住、大農場の小作移住が奨励され特に多くの農場小作が実現した。

注2 現在の西和地区全体を指し、1934年の地名改正までペオッペと呼ばれた。現福原は覚礼(かくれい)原野と呼ばれた。ペオッペ原野15線を通り、幌加内へ急いだ旅人達も、左の方は樹木が生い茂り原野の存在がわからなかったのに由来するらしい。1934年当時、和寒で1番農業生産の低い覚礼地域を将来、一番豊かな地域にと、福原と改名した。

資料 A 1902年の7月、11人の家族は和寒村の13線西20番地に1戸分5町歩の土地を払い下げられ和寒に入った。駅前の菊野伊七氏の店に休んで13線の幌加内道路を進んだ。荷物といってもほんの僅かを各々背負って和寒川から向こうは野地で水溜りとなっていた中を、更に道路から170間程山の中に入った。がん皮を切って2間に3間の拝み小屋を立て笹を刈って敷き詰めその上にむしろを敷いた。

4尺に6尺の大きな炉を切って、大きな木を割ってどんどん炊いたもんだ。当時の食べ物は麦4升に米5合くらい、金っていうものはまるきり持っていない。貧乏してきたのでからどんな苦労しても何とも思わない。辺乙部川に出て盛んにやまべをとった。それを焼いては市街の菊池氏に買ってもらって米を買ったが、米は1升11銭で、2〜3升くらいより買えなかった。灯火と言ってもカンテラを灯したり、またがん皮の皮をなって火を点(てん)じたりしていた。

B 1906年8月 午前11時頃幌加内道路を大きな熊が横切って市街裏の笹原の原野に入った。今の15線の和寒川の川べりである。鉄砲はわずか3丁ばかりで中には火縄銃を持ち出す人もあった。・・・・・・・・・・・・28貫(28×3.75=105kg)という牡(おす)熊で当時市街の人家は50戸程であったが、皆は肉を食べた。-我が郷和寒より-


3 開けゆく和寒 (2) 菜種、麦、じゃが芋の荒山(あらやま)生活

笹と木の生い茂った土地に入植した人々の生活は並大抵のものではありません。まず、着手小屋(注1)を建て生活の目安を立ててから家族全員で入植しました。

農機具は窓鍬、島田鍬、笹刈りかま等でした。細い木は切り倒し、太い木は枝のみ切り払い、笹は刈って焼き払いその後に菜種をばらまきにしました。菜種は発芽が良く笹の成長を抑える為、笹の根が腐り、翌年から、鍬で耕すのが楽になります。その上、菜種は大変良い値段で売る事ができました。菜種の後にはいなきび、青えん豆(どう)等が栽培され、主食は麦、いなきび等で、お盆とお正月にのみ白米のご飯を食べました。

明治末(〜1912年)から大正(1912年〜)にかけ、じゃがいもが栽培され開拓期の豊かな土地は、大変良い収穫をあげる事ができ、当時の大事な食糧となりました。第一次世界大戦の影響を受けて、西和、東和、三和等では、水車を利用して澱粉工場が建てられ澱粉成金と呼ばれる人々も現れました(注2)。この他お金になる作物として除虫菊、米作りが広まるまでハッカが栽培されました。西和、東和、大成等の山林では木炭が焼かれ農家の冬における良い収入となりました。

白米 60kg 5〜5円20銭
1.8L 60銭
宿料 1泊食事付 50銭
木炭(上) 37.5kg 20〜22銭
なたね 180L 6円
黒砂糖 600g 12銭
石油 1.8L 30銭
市街地 1戸分(5ha) 70〜100円
1904〜1905年物価の例-わが郷和寒より

注1 入植すべき土地に仮小屋を建て、大人が通いで開拓し、生活のめどを立ててから全員で入植する。

注2 第1次世界大戦(1914-1918)は日本の経済に好況をもたらし、北海道農業の黄金時代であった。中長(ちゅうなが)、金時、手亡(てぼう)、青えん豆、澱粉、亜麻等は高値を続け、色豆は1俵10円、5円。澱粉は1袋19円、青えん豆1俵20円、畑作反収50円の文字通り黄金時代。

注3 この外、東和、西和では豊富な林産資源を利用して下駄棒(しな、しころの木を利用した下駄の半製品)を作り、本州方面に出荷した。


(2) 砂白金(さはっきん)

ペオッペ川流域の沢から砂金が最初に発見されたのは、いつであるかははっきりしていません。1910年の夏、5線の沢で砂白金が採取され、翌年春には約100人の人夫を使って大規模な採取が行なわれました。よく取れる所では3.3平方mから26gくらいとる事ができました。 注1注2

大正(1912〜1926)の中頃が最も盛んで1日、3.75gは採取する事ができ、農家の人々の中には農閑期に砂白金取りを行なう人もいました。

太平洋戦争中の1943年資源不足から砂白金の採取のために帝国砂白金有限会社が設立されました。会社は朝鮮人労働者や日本人 労働者をたくさん使って採取を行ない(注3)、年間に約750グラムの砂白金が生産されました。

注1 我が郷和寒 注2 3.7グラムはキセルのタバコをつめるところ一杯ぐらいのもので砂白金(通称シロ)、砂金(通称アカ)がある。

注3 朝鮮人は強制徴用された労働者で約50名、日本人挺身隊約30名。

この外にタコと呼ばれる土工が約30名それぞれ就労していた。


(3) 交通、通信

和寒は、国道が南北に走り、市観地より西へ幌加内道路が走っています。これらの道路を中心に各地に通ずる道路が作られました。

1900年、駅前から5号まで道路が作られ、1902年にはペオッペ14線まで屯田兵により刈り分けの道路が作られました。その頃の和寒川、 ペオッペ川は曲がりくねり、倒れた大木や枯れた枝が水の流れをとめ、雨が降ると洪水になりました。普通でも道路は悪く、幌加内道路はぬかって歩けず、馬はもちろん、人間でもぬかって草鞋が脱げてしまったという事です。

和寒原野や市街地ではぬかる道路に丸太を敷き並べて、その上を人や馬が通りました。

1909年ペオッペ14線に駅逓が設けられ、幌加内への郵便物や旅行者の便宜がはかられました(注1)。この道路は大正(〜1926)の終わり頃まで大変栄え、冬等は木材運搬の馬や幌加内への生活物資を運ぶ馬橇が50〜60台も列をつくって歩く姿がみられました(注2)。

夏の運搬には、馬車を使うのですが、最初の頃は道路がぬかって使えませんでした。しかし、だんだん道路も良くなり、部落の隅々まで馬車が通るようになりました。

和寒郵便局は、1906年3月、須貝広夫さんを局長に迎え、他に局員1名という人数で、市街地北町に開かれました。1908年になり、和寒郵便が始めて郵便物を各家庭に配達するようになりました。1925年、南町に新しい局を建てて移りました。翌1926年には、電話の加入者が36になり電話交換事務が始められました。

注1 「官費を以て建物、馬の一部又は全部を設備し、手当金を出して旅宿と人馬の継立と郵便継立を行なう」ペ オッペ駅逓には馬宿や予備の馬が用意され、駅逓の他に1軒の旅館があった。駅逓の認可は1909年1月15日であるが1908年の秋頃から開設していたのであろう。

注2 1928年、村の交通機関、馬車229台、馬橇477台、白転車201台、オートバイ1台 -我が郷和寒より-


(4) 米作りと酪農

1907年、米作りに成功した涌井さんは、翌年20アールの水田を作り、10アール当 り120キロの収穫がありました。水田作りは、まず中和地区に広がり、次いで三和地区で作られるようになりました。1913年には50ヘクタールの水田が作られました。

西和では、稲場藤次郎、米陀加藤次郎さんらが1915〜1916年頃に米作りを試みましたが、本格的に取り組んだのは加藤兵蔵さんで、1920年に約50アールの水田に稲を植え、10アール当り360キロの大収穫を得る事ができました。同年東和の山口芳治さん、大成の中山伊勢吉さんがそれぞれ米の収穫を得る事が出来ました。水田作りは第1次世界大戦後、米価が値上り、他の農作物の値段が下がった為に和寒全体に広がって行きました。

水田が増えるに従い、大きな川の無い和寒では、水不足が大きな問題となり1922年和寒土功組合を結成しました。1923年には、水不足を無くする為にオペッペ14線と和寒原野23線に貯水池が(注1)作られました。ここに水利権をめぐっての剣渕との争いも解決し水の心配は無くなりました。

水田を作る事に水利権は大変大事な問題で、水を自由に使えるようになった農民のよろこびは大変なものでした。三和、中和には水利権の獲得の記念碑が建てられています。

1930年、三和の大西富松、中和の佐藤徳治さんらが温床育苗(注2)を試み、翌年5アール程を植えてみました。この年の大凶作にも関わらず良く実り、冷害を防ぐ新しい農業技術として 広まりました。松岡農場の支配入小川義雄さんはこの方法を更に改良し冷床育苗に成功しました。しかし、その後も農家の人々は約3年に一度の冷害(注3)と戦わねばなりませんでした。

1910年に、初代和寒郵便局長須貝広夫さんが南部牛を12頭購入したの が和寒における酪農の始まりです。その頃の牛乳は白家用として飲むだけでした。1924年、和寒酪農組合を作り、牛乳分離所が建設されてから牛を飼う農家が増え、昭和(1926年〜)の初めには、酪農戸数が100戸余りにもなりました。1931年、南雲源一郎さんらは冬の飼料を保存する木製サイロ(注5)を作りました。これが和寒における最初のサイロで酪農事業が一段と進む事になりました。

注1 西和、中和の貯水池は1922年4月着工。西和貯水池総工費11万2干円、1925年9月竣功。中和貯水池総工費40万2千400円、1924年5月竣功。当時の土木工事はシャベル、ツルハシ、トロッコが主な道具で、タコ都屋と呼ばれる飯場で寝食をし、厳重な監視のもとで、労働に従事した(逃走を防ぐ為)。もし逃亡者がつかまった場合はみせしめの為過酷なリンチが行なわれた。

注2 当時は直播といって、もみを直接水田にまいた。小川氏の冷床育苗というのは、現在の温床の熱を上げる為に床にわらくず、堆肥を入れたもので、三和地区で行われたこの方法は、全道でも最も進んだものだった。

注3 1913年。1922年。1923年。1926。1931。1932。1934。1935年。1940。1941。大正(1912年〜)以来1945年まで11回の凶作不作がある。

注4 馬については荒山の開墾、物の運搬に欠かせぬ家畜で、1907年頃からの入植者は馬を持って来た。1915年には668頭を数えるに至り、昭和(1926年〜)にかけて上川の馬産地として良馬を産出した。

注5 直径約三メートル、高さ約八メートル。


(5) 除虫菊の栽培

1910年の秋、 和寒原野23線に移住した小畑藤市さんは、ハッカの仲買いをしながら、夫婦岩の麓近くに除虫菊を栽培しました。これが和寒における最初の除虫菊です。当時は、北海道の各地で除虫菊の栽培が試みられていました。それは、除虫菊が傾斜地・台地・平地を問わず栽培でき、しかも気候にも適していたからです。

原野に往む人々の心を一番とらえたのは利益が多い事で、たちまち除虫菊の栽培が広まりました。除虫菊栽培の有利なことを主張した坂下さんらは、除虫菊栽培農家の経済の安定を図る為に、1918年12月、「和寒除虫菊製粉株式会社」を設立しました。大正の終わり(〜1926年)から昭和の初め(1926年〜)が最も盛んで、7月から8月にかけて東京から大学生のアルバイトを雇い、菊刈りや菊こきを行ないました。1926年、和寒の除虫菊の作付面積は北海道全体の約10パーセント、生産量で約11パーセント、和寒の農作物生産総価格の中で20.5パーセントを占めていて、除虫菊日本一となりました。

しかし、1936年をさかいに、連作で地力が下がって収量が落ち、除虫菊の栽培は次第に減って行きました。
 
年度 作付面積(町) 反当収量(貫) 単価(円)
1915 2.3 15.0 5.50
1918 23.4 15.0 6.50
1921 17.9 14.0 6.05
1924 56.0 12.0 5.30
1927 78.8 6.0 3.00
1930 107.3 9.6 2.20
1933 120.9 6.0 5.10
1936 132.5 5.6 2.05
1939 95.6 6.1 7.00
1915〜1939年の除虫菊作付と価格(和寒村安定農家適正規模調査より)

注1 1927年の統計資料による。

資料 A 和寒の駅を降りて市街地の大通り、中央、右手 に平屋柾ぶきの至って貧弱な建物があり、日本印和寒除虫菊製粉株式会社と云う五尺もの長い板の看板をぶら下げていた。・・・・・・・・・・・・1919年の春、 駅前のなだらかな高地、2戸分すなわち10町歩を先ず3200円で買収し全部に除虫菊を植え付けた。

石混りの傾斜地で全く菊でも作らねば他に仕方のないと云った土地で、廃地を利用する除虫菊の栽培に絶好のものであった。

B 見渡す限り白花の波、その心地よき眺めを見ずや、この花の一つ一つ皆黄金の一粒も比せん、これ反収150円内外をあげつつある和寒村除虫菊畑の盛観、我が和寒村はかくの如き誇ある特殊産物の産地としてその名重きを為す、乞う和寒に来てこの盛況を見よや。

-A、B 共に「北海道の除虫菊」より、Bは当時の広告文-


4 剣淵村から分かれて (1) 和寒村の誕生

1899年5月、剣渕外三か村戸長役場(注1)が剣渕に設けられました。戸長のもとには、各村から選挙で選ばれた総代人(注2)2名とその補助機関としての組長 が置かれて、地方の行政が行われました。1906年剣渕村が誕生しましたが、和寒市街地や原野は剣淵村役場より遠く離れている為、住民はいろいろと不便でした。その頃和寒は、 既にに市街地、原野合わせて500戸の人家があり、 駅からは多くの木材を地方に送り出す等大変賑やかでした。

1909年6月、村会議員や部落(注3)の代表が集まり和寒分村同志会が結成されました。部落の多くの人々の賛威を得て、北海道庁や上川支庁に分村独立の請願書を出しました。その主な理由は次のようなものでした。

・幌加内への道路も開け、市街地には商人や物資が集まる等、戸数、人ロが増加した。
・郵便局、巡査駐在所ができ、和寒、三和、中和、西和の小学校が出来た。
・屯田兵により開村した剣渕とは意見が合わない。
・駅があり、しかも剣渕村とは遠く離れている。
・和寒の生産が高まって来た。

このような理由に基づいて、部落全員で剣渕村議会に働きかけ、1914年、ついに村議会一致で分村に決まりました。

1915年4月1日、私達の町、和寒か独立誕生しました。和寒村7600人余りの村民は分村独立を記念して、4月18日、昼は旗行列、夜はちょうちん行列をしてお祝いをしました。

村長は北海道庁より任命されましたが(注4)、村会議員は選挙が行われ、任期2年の12名の議員が選はれ、村の政治が始まりました。村は、年々開拓が進み、 人ロも増えました。1934年には改名改正が行われ、東和、西和は小学校の名前に合わせる等、現在の地名に変りました。翌1935年、村が生まれてから20周年を迎え、戸数で1500戸余り、人ロは9300人と増加しました。

注1 同年増毛支庁より上川支庁管轄下に入る。3か村は士別村、多寄村、上名寄村である。

注2 1878年、開拓使布令第1条、1町村毎に年令20年以上の男子にて管内に100円以上の地券を有する該町村本籍の2名を選挙して之を町村総代人とする。但し100円以上の地券を有するものなき町村は中等以上の身代にして管内不動産を有するものを撰むを得べし。

注3 市街地部落、和寒原野部落、ペオッペ原野部落の三部落。

注4 2級町村が施行された。これは1902年4月施行された北海道独自の行政機構で、町村長は道長官が任命で、書記は支庁で任命、給料は道が負担、地方白治体の負担の軽減を計る。

資料 和寒村役場は茲に新に設置せらるる・・・仮庁舎は和寒市街地40番地に建設してある武田吾市の持家にして目下内部の模様替・・・ 新任村長の内命を受けて和寒へ出張 を命ぜられたる上川郡士別書記関根源三郎は、先づ仮庁舎に到着・・・ 小職は剣渕村書記宇津木、使丁となる武田三郎と協力、明日午前8時開庁執務に支障なからんを期せり。・・・ 鶏鳴一声4月1日を迎へんか、健全無病なる本村は母胎を離れて清き且つ新鮮なる空気の中に弧々の声を挙げんとする前夜、たまたま任を新村の事に受け而かも開庁の準備に指を染めて責任ある宿直勤務に服す。

3月31日宿直者鈴木書記の日誌の一部 和寒村沿革概誌より


(2) 松岡農場の解放

上川地方は、1887年以後、個人、団体移住による自作農民や農場の小作農民によって開拓が進められて来ました。松岡農場(注1)は大阪の松岡汽船株式会社社長松岡修吉さんの農場で、1921年、神戸の伊藤英一さんから買った事に始まります。

農場の面積は市街地の南町、北町、東町、西町の宅地の大部分と三笠、日の出、大成、松岡の農耕地、山林を含めると実に790ヘクタールの広いものでした。この広い土地を耕していたのは、土地の持ち主ではなく、小作農民と呼ばれる人々で、1921年頃は和寒の農家全体の約60パーセントを占め、これらの小作農民は地主に対し、地代として小作料を支払っていました。
 
所有者名 所有面積(ha)
松岡農場 802
三井農場 365
川村同族会社 238
佐藤農場 194
相馬合名会社 194
河西農場 174
天塩銀行 172
上村治作 167
角館農場 157
拓銀旭川支社 148
1927年、本町における大土地所有者 1〜10位 -我が郷和寒より-

小作料は、米、えんばくで納めたり、また、一部をお金で納めましたが、一般的に水田は米で、畑は農作物でした。生産高の30〜40パーセントという重いものでしたから、地主と小作農民の関係は、この高い小作料を巡って利害が一致しませんでした(注3)。

松岡農場では、1927年に前の年の凶作の影響を受け、小作料の引き下げの要求が起こりました(注4)。北海道庁は1927年より、これらの小作農民をできるだけ自作農民にする方針を出しました(注5)。この為小作農から自作農になる人もありました。土地を買う費用の問題はありますが、多くの小作農は自作農への希望を持ちました。

1939年の春から松岡農場解放の運動が高まり、当時の松岡農場の支配人小川義雄(注6)さんを通じて話し合われましたが、価格の点でまとまりませんでした。

和寒村長、村議会が一体となって農場の解放にあたりました。一方、北海道庁も、日中戦争下、農家経済の安定を進めていたので、1941年5月、水田272ヘク1タール、畑286ヘクタールを46万円で買い取り、118人の小作農民が白作農への第一歩 を踏み出しました。

注1 1910年頃、根井清作が将来の水田を予定し て原野を買収し根井農場となる。その後、神戸の伊藤英一に売却される。

注2 この型の地主は不在地主と呼ばれ、表に示されている地主の大部分はそうで、寄生地主制という日本特有の地主形態で作られた。

注3 「小作ハ賃貸契約3ケ年ヲ普通トシ料金ハ物納6分金納4分1割合トシテ普通反当1円乃至7円水田二在リテハ2年乃至6年ヲ納付ス」 -和寒村概説-

注4 北海道社会運動史 -渡辺惣蔵著-

注5 1927年民有未墾地開発資金貸付規定による自作農の創設。

注6 北大農学部卒、アメリカ、キャンサスの農科大学で酪農研究、1923年より松岡農場支配人。

資料 松岡農場自作農創設に関する陳情書 北海道長官宛
・・・陳者時局下農業生産の増進は愈々重且大にして最も喫緊なるに鑑み私共松岡農場小作者一同は同農地の自作農創設を以て開放相願度墾望実に切実なるもの有之候。
・・・自作農創設に関する邦家の大方針に準処して何卒之れが目的達成実現相叶候様我々の苦衷を御諒被下・・・・・・。

1940年3月 以下小作人署名 押印
 
(3) 戦争中の暮らし

1931年、満州事変が起こり、更に日中戦争を経て1941年、太平洋戦争へと広がって行きました。1931年から1941年までの10年間に6回もの凶作、不作に見舞われ、更に戦争か激しくなるにつれて、働き盛りの人も出征兵士として兵隊に行った為、農家の生活は大変苦しくなって行きました。

1941年、小学校は国民学校と名前が変りました。太平洋戦争が進むにつれて国民学校の子供達まで、手薄な農家への手伝いや(注1)いたどりの葉と リ、蕨とりを行い、「欲しがりません勝つまでは」をスローガンに戦争に協力をさせられました(注2)。この頃から次第に日用生活品か不足となり、米を始め長靴・マッチ・ 砂糖・石鹸等を自由に買う事が出来なくなりま した。

1942年に入ると、衣料品か点数切符制(注3)となり、一人につき1年間80点と決められました。男は国民服、女はモンペ姿となり防空頭巾や救急袋を常に持って歩かなけれ ばなりませんでした。

1945年に入り戦争が激しくなると、生活も一段と苦しくなって来ました。主食等も代用パン、或いはじゃが芋・かぼちゃに米 粒がつく程度となり、ついには澱粉かすが配給されるようになりました。1945年7月14日、アメリカの爆撃機により道内の主な都市に爆弾が落とされました。翌15日には旭川が 爆撃され、和寒の上空にもアメリカの爆撃機が姿をあらわしました。空襲に備えて、いたるところに防空壕が掘られ、夜間の灯火管制を始め、学校・職場・家庭で避難訓練が行われました。

注1 商店の成年男子、女子の独身者は挺身隊員として工場・鉱山に徴用された。

注2 資源不足から弁当箱(金属製)の提出、ペット用の犬猫の毛皮も使用された。

注3 スカート10点。ワイシャツ12点。背広50点。手拭3点等。

注4 窓に暗幕や紙で外部に電気の明かりが漏れないようにし、更に電燈の笠を風呂敷で覆った。


5 これからの和寒 (1) 新しい出発

1945年の敗戦、そして占領下の中で、これからの日本の進むべき道とし て、いろいろな制度を新しく作ったり、今までの間違った考え方を改めたりするように努力してきました。

新しく制定された日本国憲法には、戦争を永久に放棄する事、基本的人権を尊重する事、主権が国民にある事等が、はっきりとううたわれています。 国民は、新しい日本をつくる第一歩を踏み出したのです。

教育制度についても、「教育基本法」を制定して、正しく教育が行われるよ うにし、また、小学校6年、中学校3年間の義務教育の制度(63制)を、つくったりして、いろいろと改革が行われました。

農地については、今まであった地主と小作人の関係をなくし、耕作農民に土地を与える「農地改革」を行い、この事によって、農業の生産力や、農業に取組む姿勢が、ぐんぐんと高まって来ました。

また、働く人達の労働時間を決めたり、男女の別の無い賃金制度を決めたりした「労働基準法」を制定し、民主国家としての、新しい取組みがなされ ました。

こうして、民主国家に相応しい、いろいろな制度や形を整えながら、敗戦後7年の占領時代から新しい日本の独立へと進んで来ました。


Saturday, June 08, 2013